« 感応すること | トップページ | ラティハン »

リラックス

そして翌朝の尖山のために、
いつもより早めに床に就いた私は、なぜか11時半に目が覚めた。

寝室からなぜか、階下の自分の部屋に行きたくなったので行った。

そうすると、これから何かを受け取るのだという気が、すごくした。

なので、横になった。

そうすると、さーっと何かエネルギーが降りてきた。
ちょっとひやーっとするような冷感を感じるエネルギーだった。

しばらくすると、そのエネルギーは、
データが解凍されたみたいに
私の持っているイメージを言語として使って、
私の中で理解と共に開いていった。

それは、
リラックスするということ、
そのことの大事さについて伝えるものだった。

リラックスすることの重要性なんて、
どこを見ても目にする、真新しさのない事柄だ。
リラックスすることは大事、
今や、誰でもそう思っていることだろうと思う。

でもその定義は、それぞれ、まちまちだろうとも思う。

私だってそんなの知ってるよとずーっと思ってた。

思い返せば何年ぐらい前だろう(7~8年ぐらい前?)、

千春さん(チャネラーの千さん)と一緒に与論島のツアーに行ったときに
もらったカードのメッセージには、
リラックスという字が、確か3回も登場したと記憶している。
要はリラックするといいよ~という趣旨のメッセージだった。

それを見て、自分どんだけ緊張してんねん、と思い、
そしてリラックスぐらい、その気になればいくらだってできるよとも思っていたけど、

実際には、
本当の意味でリラックスすることが、どういうことなのか、
なぜそんなに重要なのかが分かるようになるには、
この7~8年という歳月が必要だったのである。

リラックスとは、力みを全部抜くことなのだった。

あれがしたい、これもしたい、
あれをしなければ、これをしなければという一切がなくなり、
過去を気に掛けたり、未来に煩わされることもなく、
全てを任せきって、全部の力を抜いて、ただ、今にいることだった。

いくらリラックスしたつもりになっていても、
過去や未来のことが頭の中を占め、
野心や野望が心の中に眠っていたら、
それはリラックスでも何でもないのである。

それは、仰向けになって水中に浮かぶことと、似ているかもしれない。
恐れがなく、体の力が抜けた状態でないと、
水にぽかーんと浮かぶことはできない。

それは「する」ものではなく、「しようとして達成できる」ものでもなく、
逆に何をしようという試みもやめ、
全ての力が抜けたときに、自然と起こることだったのだ。

そしてリラックスしたときに何が起こるのか。

宇宙との感応が起こり、交合が起こり、
ものごとを「起こす」のではなく、
ものごとが「起こる」ということが、始まるのである。

目標も目的もゴールも消え、
何かを実現したり、証明したりする必要もなくなったとき、
人は初めて、ただ自然にゆったりと存在することができるようになる。
そこでやっと、リラックスが起こり始めるのである。

という理解が、受け取ったエネルギーを咀嚼することによって起こった。

それは、頭の理解ではなく、私自身の体験を通じてのものだった。

ただ自然にゆったりとするという、そのために、
自分の<家>に帰ってくるという、そのことのために、
人は、どれだけ外に出て旅をしなければならないのか。
どれだけの思いを味わわなければならないのか。。


降り注いだエネルギーが示してくれたことを、
じっくりと味わいながら寝転がっていた私は、
ふいに自分を抱きしめてあげたくなった。

腕を回して、自分の身体を抱きしめる。
そうしていると、今ここに全てが完璧、という思いが溢れてきた。

全てが完璧という意識が、大きく大きく、私を包んでいる。

そのことがリラックスしているということ、そのものなのだと思った。

Dsc009702
尖山から見た日の出


|
|

« 感応すること | トップページ | ラティハン »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 感応すること | トップページ | ラティハン »