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2017年5月

リラックス

そして翌朝の尖山のために、
いつもより早めに床に就いた私は、なぜか11時半に目が覚めた。

寝室からなぜか、階下の自分の部屋に行きたくなったので行った。

そうすると、これから何かを受け取るのだという気が、すごくした。

なので、横になった。

そうすると、さーっと何かエネルギーが降りてきた。
ちょっとひやーっとするような冷感を感じるエネルギーだった。

しばらくすると、そのエネルギーは、
データが解凍されたみたいに
私の持っているイメージを言語として使って、
私の中で理解と共に開いていった。

それは、
リラックスするということ、
そのことの大事さについて伝えるものだった。

リラックスすることの重要性なんて、
どこを見ても目にする、真新しさのない事柄だ。
リラックスすることは大事、
今や、誰でもそう思っていることだろうと思う。

でもその定義は、それぞれ、まちまちだろうとも思う。

私だってそんなの知ってるよとずーっと思ってた。

思い返せば何年ぐらい前だろう(7~8年ぐらい前?)、

千春さん(チャネラーの千さん)と一緒に与論島のツアーに行ったときに
もらったカードのメッセージには、
リラックスという字が、確か3回も登場したと記憶している。
要はリラックするといいよ~という趣旨のメッセージだった。

それを見て、自分どんだけ緊張してんねん、と思い、
そしてリラックスぐらい、その気になればいくらだってできるよとも思っていたけど、

実際には、
本当の意味でリラックスすることが、どういうことなのか、
なぜそんなに重要なのかが分かるようになるには、
この7~8年という歳月が必要だったのである。

リラックスとは、力みを全部抜くことなのだった。

あれがしたい、これもしたい、
あれをしなければ、これをしなければという一切がなくなり、
過去を気に掛けたり、未来に煩わされることもなく、
全てを任せきって、全部の力を抜いて、ただ、今にいることだった。

いくらリラックスしたつもりになっていても、
過去や未来のことが頭の中を占め、
野心や野望が心の中に眠っていたら、
それはリラックスでも何でもないのである。

それは、仰向けになって水中に浮かぶことと、似ているかもしれない。
恐れがなく、体の力が抜けた状態でないと、
水にぽかーんと浮かぶことはできない。

それは「する」ものではなく、「しようとして達成できる」ものでもなく、
逆に何をしようという試みもやめ、
全ての力が抜けたときに、自然と起こることだったのだ。

そしてリラックスしたときに何が起こるのか。

宇宙との感応が起こり、交合が起こり、
ものごとを「起こす」のではなく、
ものごとが「起こる」ということが、始まるのである。

目標も目的もゴールも消え、
何かを実現したり、証明したりする必要もなくなったとき、
人は初めて、ただ自然にゆったりと存在することができるようになる。
そこでやっと、リラックスが起こり始めるのである。

という理解が、受け取ったエネルギーを咀嚼することによって起こった。

それは、頭の理解ではなく、私自身の体験を通じてのものだった。

ただ自然にゆったりとするという、そのために、
自分の<家>に帰ってくるという、そのことのために、
人は、どれだけ外に出て旅をしなければならないのか。
どれだけの思いを味わわなければならないのか。。


降り注いだエネルギーが示してくれたことを、
じっくりと味わいながら寝転がっていた私は、
ふいに自分を抱きしめてあげたくなった。

腕を回して、自分の身体を抱きしめる。
そうしていると、今ここに全てが完璧、という思いが溢れてきた。

全てが完璧という意識が、大きく大きく、私を包んでいる。

そのことがリラックスしているということ、そのものなのだと思った。

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尖山から見た日の出


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感応すること

休日の前夜のこと。
気が付くと、
「明日、日の出の頃、尖山に行かない?」と言い出していた。

「いいよ、そしたら3時ぐらいの出発だね」と言われ、
3時!汗)と思った。

出る時間のことなど何も考えずにつるっと口から出ていた。

これも感応だったのだろうか。

近頃私は、感応するように生きていけたらいいなと思っている。

反応ではなく、感応。
行動ではなく、行為。

またまたOSHOの引用になってしまうのだけれど、
『存在の詩』には、こんなことが書いてある。


『<反応>は醜いものだ
<感応>はビューティフルだ

反応はいつも部分的なもの
反応は決して<全体>のものじゃない
感応は常に<全体>のものだ
あなたの全体性が丸ごと川に飛び込む
あなたはそれについて考えたりしない
状況がただ、それを起こらしめる・・・

・・・習慣は生の息の根を止めてしまう
習慣は生の敵だ

毎日朝早く起きるのを習慣にする
5時起きだ
インドには大勢いる

というのは何世紀もの間ブラーマフルト=日の出前が
もっとも縁起のいい、一番神聖な時間だと教えられてきたからだ
それは確かだ

でも、それを習慣にしてしまうことはできない
神聖さというものは、生きた感応にこそあるからだ

人々は5時に起きる
しかし、彼らの顔に感応として早起きしたときに来る輝きは決して見られない

全生命が回り中で目を覚ます
大地全体が太陽を待っている
星々が消え去ってゆく
あらゆるものがより意識的になる

大地は眠った
木々も眠った
小鳥たちは翼を広げるばかりだ
すべてがととのう

新しい一日が始まる
新しいお祝いだ

もしそれが<感応>であったなら
あなたは小鳥たちのように起きる

ハミングし、歌を歌いながら
踊るような足取りだ
それは習慣じゃない
それは起きなければいけないというのじゃない

もしそれを習慣にしてしまったら、
あなたは小鳥たちなんかに耳を貸すまい
あなたは太陽の昇るのを見ることもあるまい
あなたにとってそれは大事なポイントじゃないからだ

あなたは死んだ規則に従っているだけだ
あなたはむかっ腹をたててさえいかねない
あなたはそれに敵対心さえ持っていかねない・・・

・・・どんな習慣も形式になってしまってはいけない
私は混沌の中に生きろといっているわけじゃないよ
だが習慣で生きては駄目だ
たぶん、内発的に生きるということによって
あなたのまわりに
ある生き方ができてくることはあるかもしれない
しかし、それは強制されたものじゃない

もしあなたが毎日朝を楽しみ
習慣としてでなく楽しみを通して早起きをし
それを毎日続け、
ことによっては一生続けようとも、それは習慣じゃない
あなたは自分に起きることを強制しているんじゃない

それは「起こる」のだ
それはビューティフルだ

あなたはそれを楽しむ
あなたはそれを愛す・・・』

このOSHOの説明を読んで、
私が好んできたのは、また大事にしてきたことは、
「感応」ということだったのかなと思った。

この前の熊野、伊勢の旅でもいろいろなことが起こった。
それらは感応だったんだと思う。

例えば、熊野速玉大社では、自然に笑いが起こった。
本当に全存在がからっと明るくなるような、
愉快な、理由のない無条件の笑いが込み上げてきた。

そのときの私は、本当に過去も未来もないんだなということを直観していた。
そして、過去も未来からも一切わずらわされないそのとき、
人は今だけにいて、自然と無条件の笑いが込み上げてくるのだと知った。

また花の窟神社では、
人間の母性とはまた違う、
原初の母性とでもいったらいいような、素晴らしいエネルギーに浸った。

伊勢神宮内宮への参拝が終わった後には、
道にあった指標を見て、月読宮へ行きたくなった。

T君はお疲れで、
駐車場に止めた車の中で少し仮眠を取りたいというので、
1人歩いて向かった(それも結果的にすごく良かった)。

月読宮では4柱の社が横並びに並んでいる。

その並んでいる4社の少し手前に来た時、
私は、降り注ぐエネルギーの素晴らしさに動けなくなった。

しばし、そのエネルギーを味わう。

本当に神々しい、そしてとてもありがたい気持ちが起こった。

その時間参拝していたのは、ありがたいことに私1人。
貸し切り状態で、一つ一つの社に向かって、自由にゆったりと
湧き上がってくるペースに任せて参拝をする。

一つ一つの社でどう感じたかは、もう覚えていないのだけれど、
一つ一つが全く違うエネルギーであることに、社と向かい合う度に驚いた。
一つ一つ全く違うエネルギー。
違うけれど、どれも素晴らしかった。
そしてそれらを鮮明に感じ取れることがうれしかった。

ソムリエが、一つ一つのワインの味を舌の上で転がして味わうように、
私はそのエネルギーの違いを、丹念に味わっていた。
歓びが、心からの歓びがほとばしっていた。

そこで起こっていたのは、「交流」であり、「交合」だったのだと思う。
エネルギーの素晴らしさをこころゆくまで味わって、一体化すること。

私にとってはこれが一番幸せなのだ、と思った。

4社目の参拝が終わる頃、参拝者がやって来た。
1人きりでこの素晴らしいエネルギーを堪能させてもらうことができた。
素晴らしい神はからいに、心から感謝を感じた。


帰ってきてからの日常でも、
自然と感応することに意識が向くようになってきた気がする。

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熊野・伊勢へ②さとりのステージ

2日目の夜にぱかっと本を開いたところには、
さとりの三つの境地について書かれていた。

OSHOによると、さとりには三つの境地があるという。

その最初の境地をOSHOは
『あらゆるものが転落する
心全体がそっくり転落し転落し転落しつくす』と表現する。

『あなたの愛
あなたの自我
あなたの強欲
あなたの怒り
あなたの憎しみ

いま現在までのあなたがすべて
突然ばらばらになって転落し始める

まるで家がばらばらに分解していくように
あなたはカオスと化す

もうなんの秩序もない
全ての規律が崩れていく

あなたはどうにかこうにか自分自身を保ってきた
どうにかこうにかあなたは
自分自身にコントロールを
規律を押し付けて
自分を取りまとめていた

それが、ゆったりと自然であることで
いまあらゆるものが転落していく
あなたが抑圧してきたたくさんのものが
ぶくぶくと湧き上がってくるだろう
表に出てくるだろう
まわり中カオスだ
あなたはまるで狂人みたいになってしまうだろう

その最初のステップは本当に難関だ
というのも
社会があなたに押しつけた何もかもが転落していくからだ
あなたが学んだ何もかもが転落していくからだ
あなたが自分自身に条件付けした何もかもが転落していくからだ

あなたの習慣のすべて
あなたのものさしのすべて
あなたの頼る道筋のすべてがすっかり消え失せてしまう
あなたのアイデンティティーは蒸発してしまう
あなたは自分が誰かもわからなくなってしまうだろう

今現在までのところ
あなたは自分が何者かよく知っていた

自分の名前
自分の家族
世間での自分の身分
あなたの地位
あなたの栄誉
あれやこれや
あなたはよくご承知だ

ところが、いまやすべてが溶けていく
アイデンティティーが喪失される
今まであなたはいろいろなことを知っていた

それがいまや
何ひとつわからなくなる

いままではあなたは世間の道理に長けていた
そういうものが転げ落ちてしまい
あなたは完全に無知なのを感じるだろう』


OSHOは、そういった第1ステージを無事乗り切ることができたら、
ごく自然に第2ステージがやってくるとする。

第1ステージが「I am」 の 「I」が取り去られる激しく厳しいプロセスだとすると、
第2ステージは、平地に出てきたガンジス川のように穏やかで
女性的で優雅で優美な状態、
「am」が残った「am-ness」の状態だと、OSHOは説明する。

そしてこの私がはがれ落ち、私の持つ一切の凶暴性がなくなった状態、
「am-ness」においても、「ある」ということ、個体性はまだ残っている。

そしてその「am-ness」さえも落ちるのが、
『川が大洋になる』 第3ステージのアートマと呼ばれる状態である。


私たちは、
次の日の朝に伊勢神宮の参拝を控えていた。

もし神前に何か思うとしたら、私は何を思うんだろうと漠然と考えていたのだけど、
このことだなあと思った。

私は(私たち、みんなは)
Iを落とし、そしてamも落とし、全てが一つとなる、
そうなっていく川の流れに入っているんだなあということ。

そして、それに対して「私」ができることなど何もないのだけれども、
それでも、炎の周りに土煙を立てたり、
どこかにしがみついて流れに抵抗をしたりしないようにする、
つまり邪魔しないことならば、きっとできるのである。

だから何か言うとしたら、それもちょっと変かもしれないけれど、
邪魔しません、なのだろうか。

私は、そのさとりのステージに関する説明を読み、
去年1年経験した状態が、まさにその第1ステージだったのではないかと思った。
確かにそれは私にとっては大変なカオスだった。

第1ステージと思われるところを何とか乗り越えて、
今の私に「I」が全くないか、と問われると、確かにかなり減りはしたけど、
いやそれはまだある、と思う。

でも、実を言うと、その「I」を落としてやるぞ~!とも思っていない。

なぜならば、それは落とそうとすれば落とそうとするほど、落ちないし、
否定すればするほど、意識の下で存在感を増していくものだと分かったからだ。

今は、ただ日常を丁寧に見守っていくだけで、
それはひとりでに落ちていくと信頼している。

OSHOは、なにものも抑圧してはいけない、
自分で落とそうと思って落とすと、それは必ず戻ってくる、
それがひとりでに落ちるように、落としなさいと言う。

それは全く、正しいと私は思う。

ああ、そんなもの要らなかったんだな~と心から納得したとき、
それはひとりでにぽとりと落ちる。
そして、二度ともう戻ってこない。

私は自分の中に、エゴがあると感じたときに、
否定も肯定もせず、受け容れ、ただそれを黙って見守る。

そうするとそれは必ず変化して、
あってもなくてもいいものとなり、そしてどこかへ行ってしまうようだ。

それをOSHOは、観照と呼ぶ。

OSHOは、心というものはないという。
心というものは、思考の往来、過去から来た、もしくは外から来た、
本当の自分とは無関係の群衆の声のようなもので、私自身ではないと。

空を覆う雲、つまりやってきては消えていく群衆たちが自分なのではなく、
空本体が、観照している自分が、本当の自分なのだ。

だから雲と自分を同化させないように、
距離を保ち、ただ見守りなさいという。それが観照だ。

その雲にこだわってその雲に同化する自分は、
未来や、過去に気を取られている自分だ。

雲が切れた束の間、
「いまここ」だけになったとき、燦然と本来の自分が現れる。
至福の、素晴らしい瞬間がやってくる。

ここにすでにもう、全て必要なものがあったことに気が付く。
全てが完璧で、何も要らなかったことに気が付く。

そうやって日々の中、実践していくこと、
そして一つ一つの気づきを感じること自体が私には大事なことである。

エゴの自分をなくして、完璧な自分に戻ることが目的でありゴール、
ということなのでもない。

目的やゴールなどないとも言えるし、
今の一瞬一瞬が、目的であり、ゴールそのものである。

今ここにないものを追い求めても、それは絶対に永遠に手に入らない、
ということを、私は経験により知った。
大事なのは、追い求めていたものは今もう既にここにあると気付くことである。

本当に、今この瞬間に全てがある。

朝が来て、私たちは伊勢神宮へと向かった。

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熊野・伊勢へ①一杯のお茶

ゴールデンウイーク中、私たちは熊野、そして伊勢を巡っていた。

当初、ゴールデンウイーク中はT君が家を空けるかもとのことだったので、
私は、1人家にこもって瞑想三昧でもしようかと思っていた。

でも何だかなぜだか、こういうことになったのだった。

今回の旅も、ゆるい計画の車中泊の旅だったが、
私が日課&楽しみにしていたのが、
夕方お風呂に入り、ご飯も食べ終わった寝る前のくつろぎのひととき、
持ってきたOSHOの『存在の詩(うた)』を読むことだった。

この『存在の詩』は、タントラのマスターであったティロパが
弟子のナロパに与えた『マハムドラーの詩』を題材に行った講話である。

旅行中私は何となく自然に、
この本をページ順に読むのではなく、
何も考えず、適当にぱかっと開いたところの周辺を読むということをやっていた。

今回私がこの旅で感じたこと、受け取ったことは
そうやって受け取ったOSHOからのメッセージと、とても連動していたように思う。

1日目の夜、ぱかっと開いた先には、こういうことが書いてあった。

『”経文、訓戒の示すところ 宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし”

なぜか?
それはその真理がすでにそこにあるからだ
それは持ち込まれなくてはならないものじゃない

あなたは、あなたがすでにあなたの内側に
その全面的な美と完成のうちに備えている
そんな何かを追い求めているのだ

為されるべきことなど何もない
「する」などということは全く筋違いだ
あなたはただ家に戻ってくればいいだけのこと

お客はもうそこにいるのに
<家>のあるじが留守なのだ あなたが内にいないのだ

欲望を通じてあなたは外へ外へと出ていく
大きな家が欲しい、大きな車が欲しい、
あれが欲しい、これが欲しい

で、あなたは外へ外へと動いていく
<家>に帰ってくる時間などありやしない

瞑想とは”家に帰ってくること”以外の何ものでもない
ただちょっとした休憩を内側で取ること
どこへも行かないこと
それが瞑想だ

ただあなたのいるところに在ること
ほかの場所なんかない

そうやってあなたは逃しているのだ
外へ出ていくことによって、あなたは逃している
追い求めることによって、あなたは逃している
探し求めることによって、あなたは逃している
それを得ようとすることによって
あなたは逃しているのだ

あなたのほうで必要なものなんか何もない
天はあなたに
あなたに与えられえるすべてを与えているのだ

あなた方はこの世に
乞食として送り込まれているんじゃない
あなた方は帝王として送り込まれているのだ・・・

”欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに”

あなたの探求が<炎>の周りに煙をつくる
あなたはぐるぐるぐるぐる走り回る
あなたはほこりを巻き上げ煙を出す
それはあなたが自分で奮闘しているのだ
そうして<炎>が隠れてしまう

少し休んで
ほこりを地面におさまらせなさい
もしそんなに早く走って大急ぎしたりしなければ
あなたは煙を立てずにすむだろう
だんだんとものごとがおさまり
そして内なる光が現れる

あなたはすでに完璧なのだという
このことこそタントラにおける最も基本的なことだ
ほかにそんなことをいうビジョンはない

みんな、あなたはそれを達成しなくてはいけないと言う
出ていって 闘い いろいろなことをしなければならず
道は苦しいものだと言う

そして誰かがたどり着くなどというのはごくごくまれだ
それというのも目的地はとてもとても遠くにあって
何百万という生に渡って人はがんばらねばならず
それでようやくたどり着くからだ、と
完成は成し遂げられなくてはならないものなのだ、と

タントラはそれが それこそが
あなた方の成し遂げられない理由だという
完成なんて成し遂げられなくちゃならないものじゃない

それはただ
それがそこにあるということを気づかれなくてはならないだけのものだ

タントラはあなたに
ずばり、今ここで悟りを差しのべる

時はいらない
延期もなし
タントラは言う

もしあなたが休んだら
ただ休むことだけでいいと

なぜなら
あなたはその落ち着きのなさによって
あたり一面煙を張りめぐらしているのだから
それにあなたはあまりにも急いでいて
耳を貸すこともできない有様だ
もし誰かが「休め」などと言おうものなら
あなたはつっぱねるだろう

「休んでる暇なんかありゃしない
ぼくは目標を達成しなくちゃならないんだ
ましてその目的地はものすごく遠い
もし休んだりしたら ぼくは取り逃してしまうよ」

タントラは、あなたが逃しているのは
あなたが走っているからだと言う
タントラは、あなたが逃しているのは
そんなに急いでいるからだと言う

ちょっと内側をのぞいてごらん
ちょっと何かの瞬間に
どこにも行かず

無欲望で
未来のことも考えず
過去のことも思わず
ただ今ここにとどまっているだけ

で、突然それはそこにある
それはずっとそこにあったのだ
そしてあなたは笑い出す

臨済が
彼が悟りを得たときいったい何をしたか
まず最初に何をしたかと問われたとき
彼は言ったものだ

「何ができる?
私は笑って茶を一杯頼んだよ(笑)

私は笑ったよ
いったい何をやっていたんだろう
すでにそこにある何かを追い求めていたんじゃないか」とね

全てのブッダたちはみんな笑ってきた
そしてすべてのブッダたちは
みんなお茶を一杯所望してきた

だって、ほかに何ができる?
それはすでにそこにあるのだ
あなたは不必要にあちこちと走り回っていた

疲れ果てて
あなたは<家>に帰ってきた
一杯のお茶はまったくどんぴしゃりだ』

私はため息をつきながら、OSHOのメッセージを読んでいた。
自分の半生が、そして無数の過去世が
走馬灯のように見え、そして消えていったような気がした。

そしてOSHOがはっきりとこのように言葉にして語ってくれていたことは
私がこの1年くらいかけて、手探りで実感として感じてきたことそのものだった。

自分の気持ちとそのメッセージが、
カギと鍵穴みたいに、ぴたりとはまった瞬間だった。

私があまりにため息をつくので、
T君が不思議そうにこちらを見ている。

何か説明をしようと、その顔を眺めているうちに、
ため息が、やがて泣き笑いになった。

自分が泣いているのか笑っているのかよく分からない。

「どの部分がそんなに響いたの?」と聞くので、本を渡す。

その部分を読み終わったT君は

一言、「まあ、お茶でも一杯」と言い、

私は素直に、一杯のお茶を飲んだのだった。

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