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2017年4月

エゴ

『もしあなたに私を正しく理解できたら
触れられるのは、動かされるのは
あなたのエゴだけだと分かる。

エゴとは過敏なものだ
もし誰かがあなたをある特別な見方で見たら
それはあなたのエゴに触れる

その人が何をしたわけではない
もし誰かがちょっと微笑んだら
それはあなたのエゴに触れる

もし誰かが首を動かしてあなたのほうを見ないとしたら
それはあなたのエゴに触れる

エゴとはそれはそれは過敏なもの
傷口のようにいつも開いていて生々しい
それは触れられると痛む
ちょっとした言葉、ちょっとした仕草・・・

相手は自分があなたに何をしたか気づいてさえいない
が、あなたのエゴに触れたのだ

そしてあなたは必ず相手に責任があると考える
相手が自分を傷つけたのだと--

いいや、あなたは自分で自分の傷口を持ち歩いている
エゴと共にあっては
あなたの存在全体が一つの傷口になる
そしてあなたはそれを持ち歩く

誰もあなたを傷つけることになど関心はない
誰もあなたを積極的に傷つけようなどと待ち構えてはいない

誰も彼も、自分の傷口を保護することに懸命だ
誰に他者を傷つけるエネルギーが残っている?

だがそれでもなお傷つくということは起こる
なぜならあなたには傷つく用意ができているからだ
常に準備を整えて待っているからだ
傷つく瀬戸際に立っているからだ

自分の傷口に目覚めていなさい
それが大きくなるのを助長してはならないよ
癒されるように努めるがいい

それはあなたが根に、根元に動いていったとき
初めて癒される

頭が小さくなればなるほど、傷口はより癒される
頭がなくなれば傷口も失せる
頭なしの生を生きなさい

一つの全一な存在として動くことだ
ものごとを受け容れるがいい
24時間の間だけでも試してごらん

何が起ころうと全面的に受け容れるのだ

誰かが侮辱する・・・それを受け容れなさい
それに反応してはならない
そしてどんなことが起こるか見ているがいい

突然あなたは内部に今まで感じたことものないような
エネルギーが流れ始めるのを感じるだろう

誰かが侮辱する・・・と
あなたは自分の弱さを感じる、心乱される
あなたはこれにどう復讐しようかと考え始める

彼奴は自分を見下した・・・!
今やあなたの中ではあれやこれやがぐるぐる動いて
幾晩も幾月も
ときには長い年月の間そのために眠れない
悪い夢さえ見る

人々は一生をこうした小さなことのために浪費する
ただ誰かに侮辱されたというだけで・・・

自分の過去を振り返ってみることだ
いくつかのことを思い出すだろう

小さかった頃、学校の先生があなたを「バカ」と呼んだ
あなたはそれをまだ覚えている、それをまだ恨んでいる

父親が何か言った・・・が、親のほうはすでに忘れている
たとえ思い出そうとしても覚えていない

母親があなたに妙な目つきをした
以来その傷はずっと残っている

傷口は依然開いて生々しい
もし誰かがそれに触れたらあなたは爆発する

こういう傷が大きくなるのを助長してはならないよ
傷の権化になどならないことだ

根元に降りてゆきなさい、全体とともに在るがいい

24時間でいい、ただの24時間でいいから
起こることに反応したり拒否したりしないでいてごらん
それに対して何もしないでいることだ

もし誰かに押されて転んでしまったら、ただ転ぶがいい
それから起き上がって家に帰りなさい
それについて何もしてはならない

もし誰かがあなたを殴ったら
頭を下げ、感謝して受け容れなさい
家に帰って何もしないでいてみなさい

24時間でいい
そうすればあなたは
かつて知らなかったような新しいエネルギーの高揚を
根元から湧き上がってくる新しい活力を知ることだろう

そしてひとたびそれを知ったら
ひとたびそれを味わったら
あなたの人生は違ってくる

あなたは大笑いすることだろう
自分が今までやってきたバカげたことのすべてを
恨んだり反応したり復讐したりしてきたことのすべてを

それによってあなたは
自分自身を破壊してきたのだということを

自分自身以外、自分を破壊できるものは誰もいない
自分自身以外、自分を救えるものは誰もいない

あなたはユダであり、またイエスでもある--』

(OSHO, 『虚空の舟』下巻より)

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All One②

翌早朝、T君が、「今日山に登る?」と聞いてきた。

T君は前日から、朝早く近くの山に登ろうかなと言っていて、
私も気分が乗れば同行することになっていた。

寝ぼけ眼で「うん、いいよ」と言うと、「じゃあ尖山(とんがりやま)へ行こう」と言う。

おおー、尖山かと思う。

ここは、1年前ぐらいから機会があったら行ってみようかと話していた所だった。

このタイミングで尖山は、私には思い付けなかったことだった。

そして尖山へ向かわなければ、
多分これから書くことは起こらなかったのではないかと思う。

T君は、このように私の選択肢にないパスをよくくれるので、とても助かっている。


少し前、私がAloneということで最終課題として取り組んだのが、T君との関係だった。
人との関係の中で、一番うそがつけないというか、ごまかしのきかないのが、
パートナーとの関係ではないだろうか。

その頃私は、
T君は私の気持ちを汲み取ってくれていないと感じていた。

けれど、結局突き詰めていけばそれは、自分で自分を愛していないから
他に愛を求めるのだという結論に至った。

それ以降私は、真剣に自分で自分を満たすことを考えるようになった。

それは多分、私にとって、とても良いことだった。

パートナーというものは、
相手にとって必要な気付きをもたらすために、存在するものなのだなあと今、思う。


話は戻り、尖山へ向かう車中で、不思議な体験が起こった。

その日は曇りで、空には雲が垂れ込めていた。
その垂れ込めた雲の間から、幾筋もの光がさっと差し込んでいた。

最初は、ああ美しい光景だなというぐらいに感じていた。
でも走っているうちに、
その垂れ込めた雲の間から光が差し込むという光景が、
何度も付きまとうように目の前に現れ、
そして現れるたびに、その神々しさは増していった。

何度目かに、全くもって神々しいその景色が目の前に現れたときに、
何と言ったらいいか、ダムが決壊したみたいな、降参したみたいな、
言いようのない感覚が訪れ、私は打ちのめされた。

こうやって雲の間から差すという形を見せられないと
光が差していることには気が付かないけれども、
光は、本当は、どこのどんな場所にも、宇宙中どこにでも、
充満しているのだと思った。

そして私たちは、
その光に生かされている、光に守られている、光に全てをまかなわれている。

それが本当の根本で一番大事なことであって、
それが全ての前提である。

私が私として存在しているのは、
そのことをはっきりと深く実感、体験するためなのである。

その気づきと共に、
ハートに強い光が流れ込んだ。
その喜びにハートが張り裂けそうになった。

この光が、そして前夜体験した全てを見守る超越した意識が、
「全てが一つ」の正体であり、本体であった。

そのとき私は、本当に全てが一つであるということを深く深く、感じていた。

全てが一つであるということを実感するということは、
この「全てが一つ」の本体に意識が戻るということなのだ。
そして、本体の私こそが、本当の私なのだ。

この本体に意識を置いてさえすれば、
どこにいても、どの次元にいてどういう形態で存在していても、
全てが一つなのである。

でも現実側に立って、全てが一つであるということを
いくら実感、実現しようと思っても、それは無理なのである。

今まで、何でそんな簡単なことが分からなかったんだろうと思う。

私は、至高体験をするたびに、それと現実との乖離を感じ続けていた。
現実をその素晴らしい世界に近づけようとしては失敗し、失望していた。

そして現実に自分の意識を置いたままにして、
ずっと、でも一つじゃないじゃないか、全然一つじゃないじゃないかと言い張っていた。

でもこれは、追いかけて理想に近づけていくとか、
成し遂げ、達成し、実現するようなことではなかったのだ。

そうではなく、それはもう既にここにある。
ただ、今自分がいる場所にそのままいながら、
本体側に意識を戻せばいいだけのことだった。

大事なのは、本体側に立つことを思い出すことだけだった。
そして本当はそれは、誰にでも、簡単にできることなのだ。

そんな体験をした後に、尖山に登った。
言葉で表現できないので書かないけれど、なかなかすごい山だった。

この場所は人工的に作られたピラミッドだとか、
UFOの発着場所だともいわれている。
(ふもとの公式な?看板にもそう書いてあってびっくりした)。

たまたまちょうど、もう1600回ぐらい冬場も含め、
ここに毎日のように登っているという
地元の女性にお会いして話を聞いたら(この人も大概すごい人だ)、
白い服を着てマヤの儀式?をする人だとか、
いろんな不思議な人がいっぱい来る場所だということだった。

私は儀式はしなかったけど、
でも向かっている間、上り下りしている間、また頂上で、
私の中の統合、T君の統合、T君と私の過去世での統合、
またそれ以外の気付かなかった統合など、いろんな統合が起こったようだった。

このように尖山への登山で、
1月から始まった旅が、一つの区切りを迎えたようだった。


B1033_2

現在使っているB103番「大天使ハニエル」。

ボトル上部は、乳白光を発するペールブルー。
下部はディープマゼンタ。

このボトルのメッセージは、「神の恩寵の栄光」だそうだけれど、
今回の体験はほんとそのものだったなと思う。

ボトルもちょうど4本目なので、
一応区切りということで、最後のボトルにしようと思っている。


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All One

東京から帰って少したつと、私は混沌の中に投げ出されていた。

きっかけはT君が買ったOSHOの本、『エンライトメント』を読んだことだった。

インドのアシュタヴァクラ・ギータについて書かれたこの本を読んでいるうちに、
私は、涙が止まらなくなり、胸がいっぱいになった。

しかし読み終わった後に今度は、
何だかよく分からない虚無感でいっぱいになってしまったのだった。

何だか雲の中に入ってしまったような、そんな感じだった。
スピリチュアルなことにも一切興味が湧かなくなり、
私は、ただただ淡々と、毎日しなければならないことをして生きていた。

それが2週間ぐらい続いた頃だったろうか。
そんなときに、私はバラエティ番組の動画を見た。

うちはテレビはないが、気が向いたときに、
パソコンでテレビの動画を見ることがある。

このやさぐれ期間は、なぜかバラエティ番組が見たくなった。
たまたま初めて見たその番組では、
芸人同士が生活を交換するという企画をやっていた。

一方は、ぼんぼんのお金持ちの男の子。
働かなくても莫大な不動産収入があり、
趣味でというわけでもないだろうけど、特段、苦労しながら芸人をやってるわけではない。

その子と生活を交換したのは、
借金が何百万もあり、家賃が払えなくなって
先輩の部屋のロフトに転がり込んでいるという売れない芸人だった。

その男は、先輩に迷惑を掛け申し訳ないというそぶりのかけらもなく
ロフトを散らかり放題にし、汚臭を漂わせている。

そして交換したぼんぼんのお金がいっぱい入っている財布を持って
その芸人が向かったのは、パチンコ、高級レストランに、バー。
人の金で堂々と、ふてぶてしい態度で、
パチンコで浪費し、レストランで高級なステーキを頬張り、酒を飲む。

それがバラエティであり、それがその企画の面白さなのかもしれないけど、
そのときの私は、マジでこいつクズだなと思った。

このクサレ芸人がと思った。

それがすさんでいたそのときの、私の本音だった。

考えてみれば、正直に言えば、その芸人は、
一番嫌いなタイプの人間だったかもしれなかった。

その人は、私が嫌う何かを、
すごくうまく体現して、象徴的に見せてくれているような感じだった。

その夜私は、久々にハート瞑想をした。

やさぐれ期間中に自分がいろいろ感じていた感情をありのままに見て、
受容した果てに、いつしか私は、不思議な場所にいた。

そこでは私はもう、そのクサレ芸人のことをクサレ芸人とは感じていなかった。

私は、全てを見渡し、見守っているような意識と共にいて、
それがどのようなものであるかということを感じとっていた。

その意識は、そのクサレ芸人のことも見守っていた。

それは肯定でも、否定でもなかった。

その人が今どのようであるかということや、何をしてきたかなどということには
全くとらわれない、条件を超越したところで、全てを見守っていた。

それは全くもって、ニュートラルで公平な、愛だった。

その意識と一体化することによって、
私は頭の理解ではない実感として、
ああ、その人がどう見えようと、どうであろうと、関係ないんだと思った。

本当に、関係ないんだ。

このような境地が、本当にあるのだなあと思った。


そして翌朝、もっと深い体験が待っていた。

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