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2017年3月

Alone=All One⑤

翌朝は、若干二日酔い気味の感じでT君と待ち合わせた。

まずは明治神宮へ行った。
言わずとしれたパワースポットだけど、
やっぱり気持ちが良かった。

ああ、やっぱり私はこういうエネルギーがすごく好きなんだなと思った。
ここはオアシスみたいな場所である。

なんか元気が出て、徒歩で新宿まで向かい、
新宿でいろいろ見て、伊勢丹でお昼を買い込み、代々木公園まで行った。

何となく天気もいいし、のんびりできるかなという感じでチョイスしたのだけれど、
しかし代々木公園のカオスっぷりには、T君も私もあ然とした。

天気の良い三連休の中日ということで、
そこにはたくさんの人が集まっていたのだけれど、
それぞれがそれぞれに好きなことに打ち込んでいた。

その日近くでアイドルのコンサートでもあるのか、ファン同士集まって
グッズを片手に自分たちの撮影会みたいなことをやっている人たち、

Youtubeにアップでもするのだろうか、お揃いのコスチュームで
ダンスの撮影をしている人たち、

木々の間で、無心にぐるぐると左回りに歩き続けている人たち、
(この人たちは、あとで中国武術の刀を取り出していたので、
そういうサークル的な人たちなのだろうということになった。)

リズムマシーンをぶら下げて、流れるテクノに合わせて絵を描くアーティスト、

ヨーヨーの技を熱く繰り出しあう二人組の男性、

「聖者の行進」を合奏する金管バンドの人たち、

一人、ディジリドゥーを演奏する人、

うさぎにリードを付け散歩する人、

着流しの侍みたいな格好をして闊歩する男性、

モデルみたいな人を連れて写真撮影するアマチュアカメラマン、

そして近くに施設があるのか、いわゆる知的障害者の人たちも
付き添いの人とグループで来ていて、奇声を上げたりしていた。

そして私たちは、それらの人々を興味深く眺めていた。

「なんか地球の縮図を見ているみたいじゃない?」と私は言った。

「でもこれだけそれぞれいろんなことやってるけど、
けんかになってないのがいいよね」とT君は言った。

確かに、みんな他の人を見てどうこうせず、
それぞれが自分の場所で、自分の好きなことに楽しそうに打ち込んでいる。
その様子を俯瞰するようにして見ていると、何だか不思議な面白さがあった。

そんなこんながあった翌朝のこと。
旅行中も持ち歩いていたオベロンのボトルを何気なく見たら、
出発前は、ちょっと濁ってすりガラスみたいな不透明な色になっていたのに、
それがものすごくきれいに澄み切っていた。

なんかこの東京旅行で、実は結構大きなことが起こっていたのかもしれないと思った。

考えてみたら、私は、東京にいる間、
そこにあるエネルギーをあるがままに感じるということを、
気付かないままに試みていたのかもしれない。

それらを消そうとも変えようともせず、
受けるエネルギーをありのままに、そのままハートを通して流すということが、
できたのかもしれない、と思った。

自分の感受性を閉じずに、敏感なまま保ちつつ、
でもそれに揺さぶられずにいるということが、
私の持っていた目標の一つでもあったことを思いだした。

「ありのままを感じる」ということが少しできつつあるのかもしれない。

このタイミングで東京に行けて、良かった。

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Alone=All One④

新宿駅を出て少し歩いているうちに、
私は新宿のエネルギーに圧倒された。

田舎で引っ込んで人と会わずに日々感じていたエネルギーと
新宿のエネルギーには、ミュートで聴いていた音楽を
いきなり大音量のスピーカーに変えたぐらいの、いやそれ以上の違いがあった。

そのエネルギーがいいとか悪いとかではなく、
行き交う人、そして溢れる物が発しているそのエネルギーの量が、
過剰なほど多かった。

取りあえず、このエネルギーに慣れるために私にはスペースが必要だと思った。

そこで花園神社近くのスパへ行き、温泉にゆっくりつかることにした。

その後飲み会で一緒に飲んだ3人は、
鍼灸師をやっていたころの先輩たちで、
そのころは仕事帰りに毎週のように集まって飲んでいた。

3人は現役の治療家なので、話題はそういう方面の話も多かった。
私はもうあまり治療自体に興味はないけれど、でも特に疎外感は感じなかった。

私は、東京を引き払った後の山での生活について聞かれたけれど、
うまく答えることはできなかった。
考え方や価値観の土壌が全く違うので、
何からどう説明していいか、全然分からなかったのだった。

それでも、そういう表面のレベルで何か理解してもらうことを
私は欲していなかった気がする。

今の自分に関してもふわーっとした話しかしなかったけど、
なんかでも、それで十分だった。

久々に再会して、それぞれがそれぞれでいるということが分かって
お酒を飲んで楽しくて、それでいいじゃないかという感じだった。

私がチャネリングとかやっていたことも知っているので、
なんかこれからどうしたらいいと思う?みたいなことも聞かれたりした。
前ならもっとチャネラーっぽいことを答えてた気がするけど、
いや今のままでいいじゃないですかというような答えしか出なかった。

だって、いろいろ日々感じながら、自分なりにこうかな、ああかなと生きている。
自分の好奇心を追いかけて、直感に従って生きようとしている。
それでいいじゃないですか、と思った。

翌朝、メンバーのうちの1人から、
すごく癒やされたみたいなメールをもらった。

楽しい飲み会であった。

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Alone=All One③

そんな中、私たちは東京へ行った。

しばらく会っていなかった友人たちの飲み会に誘われて、
ちょうど「なんか春頃に東京に行きたいな~」と思っていたこともあり、
行くことにしていたのだった。

関東のほうに実家があるT君も、里帰りも兼ねて一緒に行くことにした。

出発直前に、あるちょっとしたことが起こって、
それをきっかけにハートの中から何かが出続けていた。
ハートが痛かった。浄化かなと思った。
私はただその痛みを感じ、眺めていた。

途中から私は一人、京葉線の駅から東京へと向かった。

私が密かにどうなるかな?と思っていたのは、
自分が東京の人たちに触れて、どんなふうに感じるだろうかということだった。

今私は、日常ほとんど人に会っていない。
人と直に会わずにネットでのやりとりで仕事ができてしまうので、
本当にT君と、あとは近所の人にたまにあいさつするぐらいである。
最近まで、こもっていたかったので、そういう環境はありがたかった。

確か去年の今頃、山を離れて、東京を訪れたとき、
私は、はっきりと孤独を感じた。

何のために人々がこんなふうに暮らしているのかよく分からなかったし、
そのときの自分と共有できるような価値観はそこには全くないように思えた。

でも今回はなぜか、私は電車に乗り合わせる人たちに、
何となく愛おしさのようなものを感じていることに気付いた。

生活も、考え方も、価値観も全然違うかもしれないけれども、
それとは関係なく、そのように感じたのだった。

感じ方が、随分変わったんだなと思った。
そんなことを感じながら新宿で電車を降り、ホームを歩いていると、
ポケットに入れたはずの切符がないことに気が付いた。
ポケットが浅いので、携帯をつっこんだときに落としたのだろうと思った。

まあ改札で買い直せばいいやと思ったときに、
「切符、落とさなかった?」と後ろから声を掛けられた。

振り返ると見知らぬおじさんが切符を手に立っていた。
純粋な親切心が伝わってきた。

全く思いがけないことだったので、思わず喜びの声が出た。
おじさんはにこっとして切符を渡してくれるとすっと立ち去った。

シンクロニシティー、と私は思った。

ほのぼのとうれしかった。

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Alone=All One②

気が付くと、
Alone=All Oneワーク(?)は始まっていたようで、
何だかよく知らないうちに私は、孤独感の中に入り込んでいた。

その孤独の中で、私は、Aloneであることが、どうしてAll Oneなのか、
さっぱり分からずにいた。

禅の公案を与えられたような、混乱した気分だった。

答えを探し、
何となく「Alone=All One」という言葉でネット検索をしてみた。
果たして答えはあった。

Oshoのメッセージだった。

ご存じの方も多いかとは思うが、
Oshoは、今は亡き、スピリチュアルリーダー的な存在だった人である。

私は直接会ったことはない。
また今後、Osho関連のグループに参加するつもりも、今のところないのだけれど、
でも、Oshoとは何か縁があるようだ。

mojudという名前も実は、昔、
Oshoが紹介して取り上げたスーフィーの美しい物語のタイトルが
気に入って付けたものだった。

また、
私が取り組んでいるサトルボディヒーリングは、
Oshoの弟子だった人たちが紹介しているものだし、
オーラソーマも、Oshoと関わりがあるみたいだ。

サトルボディもオーラソーマも
別にOshoを求めて選んだわけではないのだけれどそうなったので、
私はOshoの導きを受け続けているのかな、と思ったりすることもある。

ただ、もし私に師というものがあるのだとしたら、
そのおおもとは、全大宇宙である私だと今は思っている。
私が、私の師である。

そうでないと途中の固有名詞に意識を向けることになって、縛られてしまう。
この道の探求は自分自身のハートの声を聴き、
自分で作った地図を頼りに歩くものだということを忘れてしまう。
それでは本来の目的と外れてしまうと思うようになった。

その中で、ありがたいことに、いろんな助けがいろんな存在という形を取って、
その時その時、私の前に現れて関わってくれている。
Oshoもそんな1人だと思っている。

さて、Oshoは、ネットという便利なツールを使って私にメッセージを送ってくれた。

英語だったので訳してみた。

The capacity to be alone is the capacity to love.

どれだけ独りでいられるかということが、
そのままどれだけ愛せるかということである。

It may look paradoxical to you, but it's not.

矛盾しているように見えるかもしれないが、そうではない。

It is an existential truth;
only those people who are capable of being alone
are capable of love, of sharing, of going into the deepest core
of another person - without possessing the other,
without becoming dependent on the other,
without reducing the other to a thing,
and without becoming addicted o to the other.

独りでいられる者だけが、
他を所有したり、他に左右されたり、他を変えたり、他に依存したりせずに、
愛することができ、分かち合うことができ、
他のもっとも奥深い中心へと分け入っていくことができる。
それが実存的な真実である。

They allow the other absolute freedom, because the know
that if the other leaves, they will be as happy as they are now.

独りでいられるものは、例え他が離れてしまったとしても、
今と同様に自分が幸せでいられることを知っているから、
他を完全に自由にする。

Their happiness cannot be taken by the other,
because it is not given by the other.

彼らの幸せは他によって与えられているものではないから、
他が奪い去ることはできないのである。

Osho

これを読んで私は、
Aloneと聞いて勝手に、孤独とイメージしていたが、
私がかねてから感じていた孤独はAloneという状態ではなかったのだと思った。
私が感じていたのは、Loneliness(ロンリネス)のほうだった。

上ではAloneを「独りで」と訳したけれど、
「独立している」、「自立している状態」と言い換えてもいいのかもしれない。

つまりは、
完璧に、外と自分を切り離して考えられている、

自分の状態を何かのせいにしない、
自分を満たすために他を変えようとしない、
自分と他を同一化しない、
自分のことを愛し、自分で自分を満たすことができる、
自分の幸せを他に委ねない状態、これがAloneであった。

Aloneが自分で自分を満たす、満たされている状態であるとすれば、
Lonelinessは、自分を他に満たしてもらおうとする、欠乏した状態である。

一見似ているようで、全く逆の、非なるものであった。

でもその違いに気付いたおかげで、
自分の中に、Lonelinessがあったことに気付けた。
ああそうかと思った。

このAloneの状態になれば、イコールなんだから、
自動的にAll Oneになっちゃうのである。

精神的に、とことん1人になる=自立することで、
全てが一つになる、だなんていかしてる。

逆説的だけど、でも確かにそうであろう、と思えるものがあった。

それならできそうだ、と私は思った。
(と思えるところが私の図々しいところである)

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Alone=All One

オーラソーマのボトルは次のものへと変わった。

現在は、B86番のボトル「オベロン」を使っている。
「オベロン」は妖精の王様の名前である。

B0863

ボトムにあるターコイズは以前から好きな色だった。

ターコイズは、アトランティスと関係する古代の叡智とつながっている色だとか、
イルカと関わる色ともいわれている。

初耳だったのだけれど、チャクラ的には4.5チャクラという、
ハートチャクラの右側に位置するアナンダカンダセンターと
関わっているといわれている。

このアナンダカンダセンターは、どういう役割を持っているのかというと、
第8チャクラ=ソウルスターの情報が開かれると、
その情報が、第7チャクラ→第6チャクラ→第5チャクラを経て、ダウンロードされ、
ハートの右側にあるアナンダカンダへと至り、
アナンダカンダが活性化すると、中心にあるハートチャクラへと移動する
ということらしい。

確かに、
私は、最初にゼロ番のボトルを使うことによって、
第8チャクラの情報に触れることを求めていた。

第8チャクラから下りてきた情報をハートに下ろすために、
このアナンダカンダセンターを活性化することが必要で、
そのために、このボトルを何となく使いたくなったということは
説明が付くなとは思う。

でも選んだときは、そういうことは全く知らずに、
ただただ惹かれるから、好きだからという理由で選んだ。

今まで使ったどのボトルよりも、友達みたいな親しさを感じている。

なんかぴったりくるんだろうと思う。

このボトルを使いだしたころ、
ふっとヴィッキーさんの『オリジン・オブ・オーラソーマ』を手に取って、
ぱらぱらとめくって読んでいた。

巻末のほうには、それぞれのボトルの説明が載っていて、
そこのところを何となくめくって見ていた時に、
急に 「Alone =All One」という部分が目に入った。
あれっと思った。

何だかその言葉が気になって頭から離れず、
翌日気になって、もう一回その部分を探してみたら、
それは、B43 ターコイズ/ターコイズのボトルについての説明の所に
あったものだった。

つまり、
Alone =All Oneというのが、ターコイズの持つテーマであり、
または問いということになる。

私は、ターコイズの問いを受け取っていたんだなと思った。

それにしても、
確かに、Aloneという字をばらすと、All Oneになる。
でもAlone、つまり孤独であること、が
イコール、All One みんな一つ、とはどういうことだろうか。

私のこれまでの感覚としては、Alone→All Oneだった。
孤独はAll Oneに戻るための契機であり、
決して、ダイレクトにイコールでつながるものではなかった。

表面みんなばらばらに見えるけど、
本当は一つなんだよ、っていうのは、
あちこちで耳にタコができるくらい聞いてきたし、
そんなの私も知っている。

知ってるけど、残念ながら私自身は、それについてそんなに納得のゆく実感がない。
そんじょそこらの「一つ感」では、全然納得がいかないのだ。

このボトルを使っていくうちに、
何だかそこのところが変化をすることになりそうだった。

そしてこのオベロンは、
友達みたいな親密な雰囲気を漂わせながら、
そして友達だからこその思い切りの良さと、手加減のなさをもって、
私に、ずばっと切り込んできたのだった。

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おまかせの法則

B11番のボトルが空になるころ、
私は、自分が何を望んでいるのかということを
はっきりと見出していた。

それは、「ただ、気付き続けること」だった。

宇宙に向けて問いを放つ、そうすると宇宙が私に対して答えを投げてくる。
それが現実の中で思いもよらないところから現れたり、
驚くような形で現実化していったりする。
そのことを、直観と洞察で見抜いていく、その喜びとスリル。

それは私と宇宙との一対一のコミュニケーションであり、
アートであり、クリエーションである。

宇宙と私は、共同制作で、そのときそのとき一瞬一瞬の物語を紡いでいる。

その物語を発見して味わうことが、今の私にとっては、一番の喜びである。

現実化は、
その気づきのプロセスを体験するということがあってこその、現実化だった。

私が欲しているのは、そのようなことなのだと気が付いたときに、
今の自分の生活が、生活のペースとか、住環境だとか、
仕事だとか、パートナーだとか、そういったことも含めて、
自分の望みに適した条件の環境に置かれている、ということに
思い当たった。

私にとって今の環境は、スタートとしては、
別に全部がこうなりたいと選びに選んで達成したものではなく、
取りあえず、生きて生活していかなければならなくて、
何だかたまたま偶然にかき集められた、みたいなものだった。

でも実はそれがものすごく恵まれていて、
自分が気持ちよく、穏やかに、日々を喜びとともに気付いていくことができるという、
最適な環境であったことに気が付いた。

私はもう、特に余計なことはせず、ただ今の日常に開いていけばいいのだった。

ああ、なんて楽なんだろう、という安堵感に包まれた。

もう、あえて何かを起こさなくても、
このすぐ目の前に、全宇宙が、全てが折りたたまれてあって、
あとは自分がそれを開いて、楽しんでいけばいいだけなのだ。

もう最高で完璧なものが、既にここにある、と思った。


引き寄せの法則というのがあるけど、
今回、自分が望んでいたのは、このことだったんだ、
気付き続けることだったんだ、とやっと分かって、
(そう、いろんなレベルの自分を再統合しながら、1年ぐらいかかった。)

そして現実を見たら、
もう現実は、私にとってそれをしていくために最適であろう環境に元から整っていた。

願望を表面の意識に浮上させて、引き寄せよううんぬんの前に、
必要な現実はとうの昔に引き寄せられていたのである。

本質の自分が引き寄せていてくれたことに
表面の自分がやっと追いついて気付いた、みたいな感じだった。

 
自分のハートの声に導かれるままにたどっていけば、
別に労力を使わなくても、
自然と全てが必要なふうに整っているものなのだなと感じた。

もちろんそうしていく道中、現実で起こることは、
表面の自分にとって都合のいいことばかりではないだろう。
どう受け取っていいのか大混乱することだってあるかもしれない。

でもそれらはやっぱり自分がそこを通過して感じることが必要だから起こるのである。

だから私は、自分のハートの声に従う、
そしてそこで起こることを受容して気付いていく、おまかせの法則がいい。

改めて、そう思った。

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幸せな小石

小石は何て幸せなんだろう
あてどもなく道に独り、

これまでの自分を気にかけたり、
迫りくるものを恐れたりせず、

自然の移ろいのままに土ぼこりで茶色くなって、

太陽のように自由に独立して、
仲間になったり、独り輝いたり、

肩ひじ張らず単純に、
神さまの意思そのものになっている

エミリー・ディッキンソン

(意訳:mojud)


How happy is the little Stone

How happy is the little Stone
That rambles in the Road alone,
And doesn't care about Carrers
And Exigencies never fears -
Whose Coat of elemental Brown
A passing Universe put on,
And independent as the Sun
Associates or glows alone,
Fulfilling absolute Decree
In casual simplicity -

Emily Dickinson

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カルマを消す方法

ちょっとしたある出来事が起こった。

AさんとBさんの間で起こったある出来事があって、
私はそれを末席でちょっと見学するみたいな役割を演じた。

Aさんはある目的を持ってBさんをあることに巻き込もうとし、
Bさんは、それによって動揺し、ショックを受けていた。

私から見ると、
Aさんは同じことを何度も何度も繰り返していた。
その試みはいつも失敗しているのにもかかわらず、
それでも懲りずに、また同じことをしようとしている。

そしてBさんも同じだった。同じようなことに巻き込まれては、
動揺するというパターンを持っている。

言ってみれば2人とも、
カルマのダンスを繰り広げていた。

無意識に積み上げたパターンに踊らされている。

カルマって不思議だなと思った。

木の葉が水流に踊らされるように、自分が積み上げてきてしまったものに、
無意識のうちに否応なく動かされてしまうというのは、そのとおりだと思うのだけれど、
その説明だけだと、何ていうか、無慈悲な感じがする。

今回見ていて感じたのは、これってやっぱり気付く必要があるから
繰り返し起こっているんだなということだった。

気付く必要があるそのことには、どうやったら気付けるのだろうか。

まずはそのとき感じることをしっかりと味わう。

感情は、隠したり抑圧したりするから流れなくなって、
汚水のようになるのであって、
それ自体には、本当はいいも悪いもない。

ただし、それを外にぶつけてしまうのではなく、
自分のハートの中でしっかりと味わう。

ハートの中で味わうとは、
自分のどのような感情や考えも否定したり、判断したりせずに、
あるがままに感じることを許すということである。

素直に自分の中を見つめてそれらがあることを認める。
自分にそういうものがある、と認められない気持ちも含めて、
全部を、ありのままに認めるということである。

そういうのを全部味わい尽くしたら、
受容されたそれらはいずれちゃんと全部消えていく。

それらは別に本当の自分ではなく、
一過性の天気みたいなものである。

もやもやっとしたそれらが晴れたとき、
必ず、自分を信じ、愛することにつながる気づきが
自分の手の中に入っていることに気が付く。

その気づきまでいけたら、そのカルマは消える。

感情や思考が、行ったり来たりする振り子に惑わされるものだとしたら、
気づきというものは、そこから抜け出て、行ったり来たりする振り子を
上から俯瞰して見ることのできる位置に座している。

もう必要な気づきを得たら、
現象として現れる必要はなくなるので、そのカルマは消えるのである。

そして、今回俯瞰するみたいに見させてもらっていて、
こうやって繰り返し繰り返し現れてくれるのも、
そして消すために必要な者同士が、実に絶妙にマッチングされるのも、
これは、やっぱり愛なんだなという気づきが起こった。

以前、
自分以外のみんな全てが、
自分に必要なものを与えてくれるために現れてくれる神さまの愛の姿と
教わったことがあった。

今回この出来事をのぞかせてもらって、
ああ本当にそうだなと思った。

自分に必要な気づきを与えるためだけに、
それを理解するまで、何度も何度も繰り返し、
いろんな姿を取りながら、こうして現れてくれているのである。

これは、本当に愛そのものだなと思った。

そのことが分かると、
視線を転じて何を見ても、
全ての姿が、一瞬、一瞬のどんな姿も、
必要なことに気が付くために、必要なことが起こっているだけの姿に感じられていく。

全世界が、全次元の全ての一瞬一瞬が、一人一人に対して、
常にそうなっているのである。

これは、本当に愛としかいいようがないなと思った。

この出来事をのぞかせてもらえてよかったし、
私も参加させてもらえて良かった。

私もまた必要なことを感じ、必要な気付きを得るために、
この出来事に参加させてもらっていたのである。

世界は、この宇宙は、本当にうまく作られている。

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問題は味わうために起こる

ある夜のことだった。私は、仕事の納期を翌朝に控えていた。

私は、在宅で幾つかの仕事をしているけれど、
メインでしているのはリライター(いわゆるテープ起こし)というやつである。

20時ごろ、最後の見直しチェックを終え、メールで納品しようとしたとき、
突如としてネットがつながらなくなった。
これまでこの家で長時間ネットが使えなくなるということはなかった。
他のことをしながら様子を見ていたが、状況は変わらなかった。
何度かケーブルやコンセントを抜き差ししてみたけれども、効果はなかった。

この仕事をするうえで一番大事なのは、品質はもちろんだけど、納期だ。
納期は絶対的な厳守事項である。

なのでもし早朝までつながらなかったら、
ちょっと遠くにある隣の市のネットカフェまで行って納品するしかないなと思った。

ここでダウジングをしてみた。
ダウジングは、メッセージを下ろすようなタイプのチャネリングが
通常苦手とするYes No型の質問に的確に答えてくれる。
私は振り子をイルサルのつのにつなげて使ったりしている。

やってみると、修理が必要なトラブルということではなさそうだった。
そして、23時くらいまでにはトラブルが解消して納品できる、と振れる。
また、ダウジングしている時に、まず瞑想することが必要なんだなという感覚を受け取った。

ハート瞑想をする。
私は、問題を解決するために瞑想したわけではなかった。
今の自分の感情をありのままに味わった。
納期を落とすことにはならないだろうということは分かってはいたけれど、
でもせっかくなので、まず、もしこれで納期を落とすことになったら、
どんな気持ちになるだろうということをわざと想像して味わってみた。

その味わうことからつながっていったのは、
ああ私は、責任感に駆られるタイプだったなあということだった。
22、23で本当に自分がどうやって生きていきたいんだろうということを
真剣に考え出して以来、
私はどこかで(過去世とかで)自分が果たせなかった約束を
クリアにしていくということに、一生懸命になってきたように思う。

思えば、生をまたいでずっと気になり続けていて、
今世では果たさなきゃと思っていたことを順々にやってきた。
ある約束が終われば、その次の約束が浮上してきて、
それが終わればまた、という感じだった。

約束を守らなくっちゃ、みたいな感じで生きてきた。
この責任を感じて約束に縛られてしまう、というのが私の一番大きなカルマだった。
ある時点からもうそういうのは卒業、と思っていたわけだけど、
でもそれでもやっぱりカルマの延長をやっていたんだなと振り返って思う。

それらは強力に、私の生きる原動力やモチベーションにはなっていたけれど、
でもやっぱりカルマはカルマだった。
約束を果たすこと自体に、喜びや解放感のようなものを感じてはいたけれど、
行っている内容それ自体に対して、純粋な喜びを感じていたかといわれれば、
違ったのかもしれないと思う。

気が変わって、変わった時点で、約束を反故にするということは、ありだったのだ。
でも、自分はそうせずに、すごい真面目に真剣に、
自分の責任を果たそうとして生きてきたなあと思った。

これからの自分はそういう選択はしないだろう。
でもそれはそれで一生懸命で真剣な生き方だった。
またそのときはそれでよかった。
これまでの自分を認めるような気持が湧き上がってきた。

そんなふうにハート瞑想を終え、しばらくたったころ、
本当に振り子の予言通り、ネットは何事もなかったように普通に接続が戻り、
私は23時ごろには納品を終えていたのだった。

不思議な出来事だったなあと翌朝振り返っていた時、ゲリーの話をふっと思い出した。

チャネラーとして有名なゲリー・ボーネルの話である。

ゲリーには娘さんがいた。
ゲリーは娘さんがある年になって事故に遭って
植物状態にも近いような重症になってしまうことを知っていた。
そこでゲリーはどうしたか。

娘さんに、自分が予知した内容は告げずに、
子どものころから、もし自分がそういう身体状態になったら、どんなことを味わうか、
を詳細にイメージさせ体験させ続けたのだそうだ。

そして娘さんは成長し、
事故当日、ゲリーはその日がそうだということを知っていたが、
何も言わずに送り出した。そして娘さんと、デートしていたボーイフレンドは、
交通事故には遭ったけれども、とても軽い事故で済んだのだという。

私がこの話を教えてもらったのは随分前だったのだけれど、
そのときは、へえ、そういうこともあるんだなというだけで、
話のポイントをつかまずに通り過ぎてしまったような気がする。

でもこのネットの体験とゲリーの話とがつながって、
そういうことだったんだなという理解が降りてきた。
このネットのことは、私にいろいろと気付かせてくれるために起こったんだなということも。

つまり、問題は、その人が味わう(味わって気付く)ための
何かを提供するために起こるのであって、そのことを味わいつくし、
必要なことに気付けば、自然、その目的が終わり、消えていくのである。

例えば、『喜びから人生を生きる』のアニータ・ムアジャーニが体験した
末期がんからの生還も、彼女が臨死体験で気づきそのものに飛び込んでいったから、
起こったのではないだろうか。

同じことに遭遇しても、そのことに対して持つ感情、反応はさまざまである。
怒り出す人もいれば、悲しむ人もいるし、
引っ掛からずに、何も反応しない人もいるだろう。

人はそれぞれに、その人が外側の世界と自分を出会わせたことによって、
自分の中から湧き上がる、自分自身についての反応を味わっているだけなのである。

そしてその反応はなぜ起こるのか、何のために起こるのか、

それらの反応の全てが「Love me」という矢印のように私には思える。
「自分を愛する」ということである。
自分を愛するというベクトルに自分自身の意識を向かわせるために、
それらは起こるのである。

自分の中に起こる反応を、他の何ものでもなく、
自分自身に基づくものとして感じ、真っ向から偽りなく見つめて、
自分をありのままに受け入れていくことが、本当に自分を大切にし、
愛するということの始まりである。

そして、他を愛するとか、世界を愛するということも、まずはそこから始まるのである。

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「分からない」ということ

そして私は、より気づきを高めるというワーク段階に入った。

気づきを司るのは、第6チャクラ、第3の眼である。
『サトルボディヒーリング』によると、ワーク方法の一つとして、
ゆっくり歩いて、足が上がったり下がったりする感覚に気付くなどと書いてある。
正直なところ、うーん、それって面白いのだろうかと思ったのがスタートだった。

私にとっては、気づきとは、自分の中に降りてくる一瞬のきらめきであり、
何か真実の閃きを一瞥するような感じ、向こうからやってくるものであった。
それを一瞬一瞬、能動的に気づいているとは、どういう感じなんだろうと思った。
それって楽しいのだろうか。

何となく腑に落ちなかった私は、
「気づくとはどういうことなのか、具体的に教えてください」と宇宙に問いを投げておいた。

やがて答えはやってきた。
こういうふうに受け取れたのは、きっとこの期間中、
オーラソーマのB11ボトルを塗っていた効果もあると思う。
ちょうど朝起きたばかりの無意識と意識の間を、
床の中でさまよっているような感覚の中で、私は、これまでの人生で
「分かろう」とすることをしてきたのではないかと振り返っていた。

しかし、考えてみれば、全てが分からないことだらけなのである。
例えば、現代の認識では、新しい生命が誕生するときには、
まず卵子と精子が結合して受精卵ができる、ということになっている。
もしそこに、それはどうしてそうなるの? 誰がそれをしているの? 
という問いをぶつけたとき、
専門家はあるいは、ホルモンがどうのとか、脳がどうとか言うかもしれない、
でもその問いにもまた、でもそれはどうしてそうなるの? 誰がそれをしているの?
という問いが出てくる。

どんなにその問いを繰り返して、現象を突き詰めていっても、
今のところ私たちが出し得る答えは、
何かのふるまいを一定の条件の中で観察したものにとどまり、
どこまで行っても、本当の原因であり、行為者につながることはできない。

以上のような話は、スピリチュアル系でもよく言われるようなことだし、
私自身もそう思い、自分はそのような科学的なアプローチの不毛さを
よく理解していると思っていた。

しかし私は、科学を信じているわけではなかったし、
そこに答えを求めようとは思っていなかったけれども、
科学とは違うアプローチで、真実を知ることができる、
理解することができるのではないか、したい、と思っていたのだ。

でも、よく考えてみると、いろいろなことを学んできたし、
体験してきたけれども、結局、自分は何一つ理解していなかった、
分かっていなかったということに、私は去年気が付いたのだ。

確かに知識のようなものは、少し身に付いたのかもしれない。
けれども、本当に知りたかったようなこと、大きく全体を見通すようなこと、
生命の源に触れるようなこと、どんな人でも完璧に救うような方法、
そういうようなことは、知り得なかった。

多分、私はそのことに深く失望していたのかもしれないと思う。
ここまで、こうやって懸命に生きてきて、
結局、知りたいことを何も知ることができなかった、
自分が何も分からないということに、ただ気が付いただけだった。
だから去年来、私の中には無力感のようなものが横たわっていたのかなと思う。

という自分のこれまでを床の中で反芻していた私に、別の気付きが降り注いだ。
それは「どこまで行ったって、分からないのだ」ということだった。

例えば子どもは、酵母と小麦粉を使って、
パンを作り上げる母親を下から見上げて、
この人は、自分の知らないことを理解しており、
すごい力を手にしている、と思うかもしれない。

けれども、母親当人にしてみれば、
それはこうすればこうなるという法則のようなものに乗っているだけで、
母親自身が、酵母を働かせて、生地を膨らましたり、
生地を焼き上げる力を持っているわけではない。
こういうふうにすれば酵母が働き生地が膨らみ、
こういうふうにすれば、生地が焼き上がると知っていることを、やっているだけである。

そういうふうに、どんなに上の段階までたどっていっても、
例えば、それが惑星の運行を司っているような存在であったとしても、
その法則を知ってはいても、どうしてそれが起こるのかは「分からない」のではないか、と私は思った。

この宇宙は、全く分からないことだらけでできている。
足の上げ下げ一つとっても、どうしてそれが起こるのかは、
体の内部・外部で「観察すること」はできても、「分からない」。

自分の隣にいるたった一人の人のことも、全然分からない。

そして何より、この自分というものが、本当に「分からない」。

全く、全てが分からないことでできあがっている。
そう考えてみると、何か少しでも分かっている気になっていると
錯覚していたことのほうが、おかしかった。

この宇宙は、元々が、そしてどこまで行っても、「分からない」のである。

そしてこの「分からない」事自体に、驚嘆したり、感動に打たれたり、
感謝したり、賞賛したり、いろんな形で堪能することが、
「気づき」ということなのだという理解を、私は受け取った。

だから「分からない」でいいんだ。というか、「分からない」がいいんだ。

と思ったら、急に視界がぱーっと開けたようになった。
肩の荷が下りたような、新鮮な空気が自分の中に入ってくるような、そんな気分だった。
とてもとても、気が楽になった。

そして多分、この「分からない」という自分を
ありのままに受け止めている状態が、最も気づきがもたらされる状態なのである。


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私-観照それ自体

心境に区切りが付いたところで、私はオーラソーマのボトルをチェンジした。
今度のボトルはB11番である。
今回はどうしてもまずディープマゼンタの入ったボトルを使う必要を感じたので
0番から始めたけれども、もし本当に選ぶなら、私は11番のボトルを1番最初に選ぶと思う。

B0111

このボトルのアファメーションは、「私はありのままの自分を愛します。」
ボトルの意味を見て選んだわけではないのに、ぴったりだった。

このボトルを使い始めて起こったのが、村での3年間を総括することだった。
村という出来事を通して、私は、自分の人生に確信が持てなくなっていた。
自分がこれまで何のために生きてきて、
そしてこれから何のために生きていくのかということを本当に問い直さないと、
これから納得して生きていけないんじゃないかと私は思った。

そのことが始まって、数日間、うまくハート瞑想に入っていけず、
苦しんでいた私を見かねたのか、ある時瞑想中に、ある存在が語りかけてくれた。
その存在が話してくれることを聞いているうちに、
意識が上に上がって、自分の人生を俯瞰して見ているような感じになった。
と同時に、この世というか地球での現実の生活も俯瞰して見ているように感じられるようになった。

地球が広大な大きな箱のように見えた。
そしていろんな人たちが、各所に集まっていろんなゲームをしている。
ゲームは1種類ではない。いろんなゲームがあって、
それぞれが好きなゲームの所に行ってそれぞれにゲームに興じている。
地球の条件下でできるものであれば、どんなゲームもありだ。
ゲームにいいも悪いもない。ゲームはゲームだ。
自分のやりたいどんなゲームでもやれる場所、それが地球なのだ。

でも、と私は思った。
この1年くらい、あらためていろんなゲームをしている人たちを随分耳目にしてきたけど、
そして、ああ、こんなゲームもあるんだなあと思ったりもしたし、
私もどこかのゲームに参加したほうがいいのかもなとか、
我を忘れるくらいに楽しめるゲームはないだろうかと思ったりもしたけど、
結局うまくのめり込めそうなものを見つけることはできなかった。

私が、結局関心があるのは、
どのゲームに参加するかではなく、ゲームの外に出ることなのだ。
感情があったとしても、感情を味わうことそれ自体にではなく、
味わった後に指し示される叡智だとか気付きのほうに興味があるのだ。
二元性の振り子の下でその揺れに翻弄されるのではなく、
その振り子の上に、支点の部分に立った視点を獲得すること、それが、私が望んでいたことだ。

と思った時に、やっと自分の人生がつながって見えた。
あれもこれも、そこに至るためだったと思えたら
本当に意味ある人生だったし、これからもそうなのだと思えた。

『サトルボディヒーリング』には、
自分とは、自分じゃないものをどんどん剥ぎ取っていった時に残る観照、
気付きそれ自体だという一節がある。

村に住み始めたころ、雪が降って、明け方に雪かきをしていたことがあった。
ピーンと張り詰めた冬の朝の空気の中、吐く息も白く、
私は初々しい気持ちで作業をしていた。

そんな中、ふっと、「私は村にはいない」という気付きが降りてきたことを
今でも覚えている。肉体がどこにいても、私はそこにはいない、私はここにいる、
と澄んだ意識が私に告げていた。
そして、その後村で経験したことも、またこれまでの人生におけるどの体験・経験も、
それを本当に理解し、気付くためのものだった。

『あなたはあなたの行動ではなく、
信念でもなく、あなたの思考やフィーリングでもありません。
あなたはあなたの肉体やマインドですらありません。
それが幸せでも悲しみでも、惨めさでも至福でもそれはあなたではありません。
あなたはそれらの経験を観照している者です。
あなたは観照それ自体なのです。
あなたは、瞬間瞬間に生じるこれらの現象全てを観照している意識、純粋な気付きなのです。』

『第三の目が開くと、人は振り子の最上部へと移動できます。
振り子の揺れは続きます。サトルボディは対極のダンスを踊り続けます
――しかし、最上部にはバランス、調和、静けさと全体性の感覚があります。』
(サトルボディヒーリングより)

第1チャクラ、第2チャクラ、第3チャクラで
現実の中で対極のダンスを踊り続けながらも、
主人の私は、第6チャクラに座して、
それらの経験を通して気付き続けていく。

ということを、私はあらためて始めようとしていた。

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「素晴らしい」

ある夜、寝付かれずに、横になっていたときに、
ふと、脈絡もなく「素晴らしい」がすごい勢いで降り注いできた。

それらに「素晴らしい」と書いたラベルが貼ってあったわけではない。
でも私はそれらが「素晴らしい」の大きな流れであると直観した。

「素晴らしい」は、もう息もつかせぬ勢いで、
次から次へと怒涛のように流れ込んでくる。

流れてくる「素晴らしい」にも、いろいろな「素晴らしい」がある。
いろいろな種類があるけれども、それらは「素晴らしい」という名前でしかあり得なかった。
流れてくるものを味わってみてそう確信した。
それらは「すてき」でもなく、「驚くべき」とかでもなく、やはり「素晴らしい」だった。
そして、「素晴らしい」の通り道になるという気持ちは、
やはり、とっても「素晴らしい」ものだった。

私は、今、自分が「素晴らしい」の発信地(というか中継地)になっているんだなあと感じた。

そして、私は今、祈っているのだろうと思った。

私は、こういう、祈るつもりもないのに、
勝手に祈りの一部になってしまうこのことを、祈りといいたい、と思った。

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ふるさとへ

そんな心境の中、私は、ハート瞑想に力を入れていた。

外側に向かって何かをしようとするのではなく、
内側に向かって自由度を高めていくというあり方を、本格的に選択したのだ。

そして恐らく、そのようにいろんな期待を落としたことが良かったのだと思う、
ハート瞑想をしているある時、それは起こった。

ハートの深いところまで入り込んだ私は、ふと気が付くとUFO的なものに乗っていた。
そして、目の前には、鮮やかなターコイズというか、ラリマーみたいな
つやっとした色合いの星が大きく見えた。ああ、あの星だ、と思った。

私には、ふるさとみたいに思っている星がある。
皆、たましいが分けられて自分という意識になって、今があるわけだけれど、
そうやって私が、私というたましいになった直後くらいに行った星ではないかと思う。

地球の人には知られていない星で、地球からはとても遠いところにある。
とても波動が高い星で、ここで私は本当に幸せだったという記憶がある。

地球にいるのがつらく感じられるようになってしまってからは、
本当に、そこへ戻りたいと、今ではとても子どもじみた考えだったと思うけど、
でも本当に、戻りたい戻りたいと思い続けていた。

でもそこへ意識を戻すことは難しかった。
戻りたいと思い続けていた時は、戻ることはできなかった。

ところが、そんなふうにもう望まなくなったときにそれは起こった。
私は、そのつやっ、ぷるっとした水を含んだような、
美しい水色の星に住むヒトたちの意識の中へと入っていった。

それは不思議な感じだった。
みんな一つになって一体となって、ものすごい勢いでぐるぐると回っているような、
そんな感じだった。みんなすごい幸せそうだった。
人間の肉体感覚を持っている、今の私の感覚にとっては少し違和感のある感じで、
その違和感に気付いた途端に、ふっとそこからはじかれて私は肉体に戻った。

自分が行きたかった星に唐突に行けたということに驚いて、
そのままじっと横たわっていた私に、時間差で、喜びとか幸せがやってきた。
まるで雷が光った後、しばらくしてから音が鳴る、みたいなそんな時間差だった。

それは本当にものすごい幸せだった。
閉じた目から幾重にも涙が流れ出た。
本当に本当に、幸せだった。

今思うのは、私は、地球にいながらにして、
あの星にいつでもいられるようになるのではないかということだ。

それは地球の現実を見ないとか、逃げているとかそういうことではなく、
地球にいてもどこにいても、自分の責任=Responsibilityを駆使して、
あるがままの美しい自分、調和の取れた自分でいるということ、
愛というスペースの中に自分を置いておくことができるようになるということである。


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諦め

アカシックから帰ってきた私の中で、ある変化が起こり始めた。

何というか、これから生きていく上での期待が、すぱっと落ちたのだった。

この1年くらい夢というものを持たなくなっていて、
どうしてもやりたいというほどの、本当に本気でやりたい仕事も今はない。

何か興味が持てるものはないかと、
掘っても掘っても、これこそそうだというものが出てこない。

まるでもう鉱脈が尽きたみたいだった。

もちろん毎日が楽しくなかったわけではない。
喜びも楽しみもあった。幸せも感じている。

でも本気になって、情熱をぶつけられる何かを、私はじっと待っていたのだ。

もう自分で何かする必要はないと思いつつも、
いつかは、本当にこれがというものが出てくるんじゃないかと思っていた。

でもアカシックにまで見に行ってもそれが与えられなかったことで、
私の中で諦めが芽生えたのだった。

そしてこれから一生、何も成し遂げずに、何にもならないまま、年老いて、
やがておばあさんになって、消えていったとしても、
それはそれで、もういいやと、そう思ったのだった。

ちょうどそんな心境だったころ、受け取ったメールにこのような一文があった。

『まったくシンプルで、何の期待も抱かぬ一粒の砂になる。』

まさにそんな感じだった。

何の夢も期待も、特別さも持たない、私はただの砂粒だった。

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