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2017年2月

アカシックレコード

今使っているオーラソーマのボトルにあるディープマゼンタは、
第8チャクラ「魂の星」の色として解釈され、「魂の青写真」、
いわゆる「アカシック レコード」として知られるものを含んでいるとされている。

この旅の中で、私はアカシックレコードを見に行こうと決めていた。

宇宙図書館へは、これまでは人に先導してもらったり、
ヘミシンクを使ったりして行っていたので、
完全に空手で行ったことはなかったのだけど、まあ行けるだろうと踏んでいた。

前先導してもらったときは、ガイドしてくれる存在を呼んで、
一緒にUFO的なものに乗っていった記憶があったので、
今回も一応そういう存在を呼んでみた。

NOVAウサギみたいな表情のウサギが来た。
またウサギかと思った。前誘導してもらった時も、ウサギみたいな宇宙人が来たのだった。

NOVAウサギと一緒に宇宙図書館へ向かう。
そこは大きなセンターみたいだった。中へ入っていくと、
天井が吹き抜けみたいに広く高くて、らせん状のシャンデリアみたいなものが付いていた。

私が聞きたいことに答えてくれる場所へと自動的に運ばれる。
以前、宇宙図書館で自分に関する本を開いても、字としては読めなかったので、
今回は分かるように話をしてくれる存在と対面で話がしたかった。

対面のカウンターみたいなところへ着地した。
翻訳機みたいなのが必要みたいで、
頭の上から大きなヘッドホンみたいなものが降りてきて、
それを装着してコミュニケーションした。

私が今回アカシックレコードにアクセスしに来た理由、
それは、自分が今生この地球に本当は何をしに来たのかを知りたかったからだった。

担当者(なのか?)は、
この宇宙にはいろんな形状、次元で宇宙がいっぱいあって、
大きい宇宙も、小さい宇宙もある。

今、あなたがいるのはその中の小さな小さな一点、
でも本当はどこにいるかは関係がない、大きいとか小さいとかは関係がない、
どこにいるかは関係なく、どこにいてもその場所を超えた、
本当のあなたでいることが大切なのだ、
そうなるために今、そこにいる、みたいなことを言った。

今は言われたことに納得しているのだけれど、その時は失望した。

私は多分、まだ何かしたかったんだと思う。
残りの人生に、何か本当に自分がこれだと思えるような仕事とか役割とか、
何か情熱を傾けられるような何かが欲しかった。
アカシックに行けば、それを教えてもらえるのではないかと思っていた。

でもアカシックではそういう情報がもらえなかった。

私は、がっかりしていた。

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カルマフリーへ

ハート瞑想を始めて、ちょっとたったころのある夜、
ワーク中に、なんか今ならカルマゼロになるんじゃない? とふと思った。

それで、「したいです」みたいな感じで意思表示してみた。
そしたら誰かが来て、必要な処理みたいなことをしてくれた。

来た存在が、なんかしながら振り返って
「ホントいいんすか?」みたいな感じで聞いてきたので、
「ああいいです、いいです、お願いします」みたいな感じで答えた。

それはまるで、引っ越してきたときに、ガス栓開けてください
みたいな感じで頼むくらい、カジュアルな感じだった。
別に厳かな儀式も、ラッパのファンファーレもなく、それは起こるのであった。

では今、私のカルマはゼロなのか。というと、まだゼロじゃないなと思う。
そんなに多くはないと思うけど、カルマはまだ残っている。

じゃあ、あの開栓作業みたいなのは、どういうことだったのかというと、
多分、カルマのない状態でいるということはどういうことなのかという
実践の道のりが始まったということなのだ。

そもそも私は、過去に地球全転生中の全カルマを解除するという
エネルギーワークのファシリテーターをやっていたわけで、
もちろん率先して自分自身のカルマ解除をしていたので、
本当なら、もうカルマがゼロでもおかしくないわけなのだった。

でも自分がカルマゼロではないことは知っていた。
またそのエネルギーワークでも全カルマ解除といいながらも、
その人がその時納得しているカルマしか落とせないことも、
落としたとしても、本人がカルマゼロでい続けられるあり方でなければ、
またカルマが積もることも、知っていた。

カルマはゼロになっても、自分のあり方がカルマと関係ないようになってないと
またゼロではなくなってしまうのだ。一時、ある時点でゼロにしても、
いわば自分がカルマフリーの状態になっていないと、あまり意味がないのである。

カルマから自由になるとはどういうことだろう。

過去自分自身で積み上げたパターンに支配されないとか、
不要な思い込み、信じ込みから解放されているとか、いろいろあると思うけど、
それらはある一つのことへと集約されていくような気がする。

「私には責任がある」ということである。

サトルボディヒーリングでは、
人が覚醒していくためにまず必要なものが、まずハートの受容性であると説いている。
そしてその次に出てくるのが、
第5チャクラで登場する「私には責任がある」というパスワードである。

この責任があるというのは、
起こること全てが自分のせい、あれもこれも私の責任ですという意味ではない。

I have a responsibility.という意味である。
Response Ability つまり自分がどう反応するかどう受け取るかということに
関してのコントロール権は、100%自分の手中にある、という意味である。

外側で何があっても何が起ころうとも、
自分がそれをどう受け止め、どう反応するか、
自分の中がどういう状態であるかということについては、
完全に自分次第であり、それに対しては完璧な能力があるということである。

私は、カルマフリーになるために最初に出てくる条件が、
この「私には責任がある」になっていること、ではないかと思う。

そしてその「私には責任がある」は、恐らく本当に自分を受容していないと、
自分を愛していないとできないことなのである。

カルマがあったときの状態から自分が何も変わらずにカルマだけをとっても、
それはカルマフリーとはいえない。
自分が、カルマがないありように対応しているかどうかが大事なのである。

私は多分、今、本当にそういう状態に移行していけるよう、
道を歩き進めているのだと思う。
 

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大きな反動

今回の旅は、自分で選んだテキストを教科書、地図代わりに、
オーラソーマのボトルを、導きと保護をもたらすものとして使いながら、
自分の感覚を頼りに行っている。指導者も仲間もいないため、
何か起こったときは自己責任でそれを受け止めなければならない。

このハートの道は恐らく反動のない安心な道であるはずなのだけれど、
一つやり方を間違えると、きつい反動が来る場合もあるということも、
一応書いておこうと思った。1月下旬ごろ、私にも大きな反動が起こったことがあった。

私は、その前日の夜、呼吸のギャップの中で第1チャクラ、第2チャクラ、
第3チャクラを統合するというワークを行っていた。

翌朝起きたとき、何となく変な感じがするなとは思っていた。
それでも朝から自宅で仕事をしていたのだが、作業しているうちに、
次第に気分が悪くなって座っていられなくなってきた。

ものすごい悪寒がした。石油ストーブの前に倒れ込むようにして
横になっていたのだけれど、悪寒は次第に強まり、骨の髄がきしむように痛くなった。
1時間くらいその感覚に耐えていたのだけれど、寒気は収まらず、
ガクガクと体が震えるくらいだった。

これはさすがに誰かに助けてもらわないとやばいなと思った。
でも誰をと思った時に頭に浮かんだのは、ナジャだった。
ナジャに呼び掛けると、ナジャはすぐに来てくれた。
そして私の様子を見渡すと、耳の下にあるボリュームつまみに気が付いて、
すぐにそのつまみを、ボリュームを下げる方向へと回した。

ワークでは耳の下辺りにボリュームのつまみがあると想定して、
チャクラの様子を感じるためにそのボリュームを上げたりすることがあるのだけど、
どうやら私はいつの間にか、そのつまみを最大限に上げっぱなしにしていたみたいだった。

そういえば、その時感じていたのは、確かに増幅された音声を聞いているような、
ざらついた感じのエネルギーだった。悪寒も骨が痛むような感覚も浄化として
起こっていたのは間違いないけれども、私は必要もないのにそれを大きくして
増幅させて感じ取っていたみたいだった。
本当に自分のアホさ加減には愕然としたけれども、その時は
自分に突っ込みを入れる気力もなかった。私は疲弊しきっていた。

ナジャは、オーラソーマのボトルを塗ることと、それからお茶を飲んで
ちょっと落ち着いてから休むようにとアドバイスをしてくれた。
ナジャが若干、ちょっとあきれたような雰囲気を醸し出しながら
帰っていったのは、気のせいだろうか。

ともかく、何とか気力を振り絞ってボトルをシェイクして塗った。
0番のボトルは、もともと緊急時のスピリチュアルレスキューのボトルとしても
知られている。でもその日は偶然というか、まだボトルを塗らずにいたのだった。

こんなときに塗らずにいつ塗るんだという感じだったけど、
具合が悪くなってからはボトルを塗るなどという余裕もなかった。
お茶を飲み、布団を敷いて、その中に潜り込み、気を失うようにして眠り込んだ。

数時間後、目が覚めた。ガクガク震えるような悪寒は収まっていたけど、
今度は吐きそうなくらい胸がむかついていた。
二日酔いのひどいやつみたいな感じだった。

その感覚を味わっているうちに、その吐き気が何に結びついているのかが、
はっきりと鮮明になってきた。嫌悪感だった。
その嫌悪感を放っているのはサブパーソナリティーだった。

サブパーソナリティーとは副人格のことであり、誰でも持っている。
ヒプノセラピーなんかでも副人格に会いに行ったりすることがある。
しかし、これだけ私自身に対してはっきりと敵対するような嫌悪感を放っている
サブパーソナリティーに対面するのは初めてだった。

そのサブパーソナリティーは、内側に激しい情熱を秘めた、
理想に燃える男性みたいな感じの性質に思えた。

生真面目に理想を追求するがゆえに、自分にも他人にも厳しいような、
そんな感じのパーソナリティー(以下サブパと呼ぶ)だった。
そのサブパは大変怒っていた。

何を怒っているのか話をしてみた。結局、この数年間、自分を捧げるようにして
取り組んできたことから今大きく方向転換しているということに、
サブパは納得がいっていなかった。
「何がハート瞑想だ! そんなこと絶対に認めない!」とサブパは言った。

その激しい様子に気おされつつも、私は、これは真摯に対応するしかないと思った。
どうしてそうすることになったのかということ、
そして今自分がどう感じているのかということを正直に、素直に伝えた。
そんなやりとりをしているうちに私はまた眠りに落ち、
目が覚めたときには嫌悪感は消えていた。

その日はいろんな意識状態をさまよっているうちに、
自分の中の孤独感に突き当たったこともあった。
誰しも孤独感というものを根底に抱えていると思うけれども、
私もまた独特な孤独感を持っている。
これまでも何度も何度も、孤独感に対しては取り組んできたけど、
どこまでいっても完全には取り除くことのできないもののように思えていた。

私がその時見た孤独感は、イメージの中で木の切り株のように視覚化されていた。
私はこれまでいろいろなワークをしてきたから、孤独感それ自体の幹や枝葉は
切り倒されたようになっている。でもその根っこは、残って生きていた。

ふっと、もしその根っこを引き抜いたらどうなるのだろうという想像が頭をよぎった。
その切り株は、地中に張り巡らされ、私という人格のベースになっていた。
もし無理やり引き抜いたら、人格が崩壊してしまうのではないか、
というような生存に関わる恐怖を感じた。

無理やり引き抜いてはいけないと思った。この孤独感も、突き詰めていけば、
叡智に変容するものなのだ。と思ったときに、その切り株から、萌芽が起こり、
やがてどっしりと豊かに枝葉を茂らせた大きな木になるイメージが立ち上がってきた。
きっとそうなるのだと思った。

結局その日1日は、他にも頭や眼球が痛んだり、胃が痛んだり、熱が出たりと
浄化が続いた。仕事から帰ってきたT君が看病してくれたこともあって、
夜はぐっすりと眠ることでき、朝になったら全ての症状が治まっていた。

何でこのようなことになったのか、はっきりとは分からないのだけれども、
私は、前日、瞑想をしている時、気付かないうちに、
ありのままを認めるという気持ちを忘れて、
変化させよう、チャクラを制御しようというような意図を持って、
チャクラの統合のエクササイズをしていたのかもしれないと思う。

そういう意図を持ちながら深いところまで入っていったがために、
自分でもコントロールできないような浄化が起こってしまったのではないだろうか。

ちょっと自分でもどうなるかと思うくらい強烈な浄化だった。

チャクラを開いていくということは、一歩間違えると、実はすごく危ないことなのである。
ハートを忘れると、大変なことになるということを実感した1日だった。

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第2チャクラ

第4チャクラであるハートチャクラの下位には、第1・第2・第3チャクラがある。
簡単にいうならば、
第1チャクラは肉体、第2チャクラは感情、第3チャクラは頭ということになる。

私はこの数年、これらの下位のチャクラをおざなりにしてきてしまったなと感じていた。
道具みたいに動かしてきてしまったなという感じだった。
そういうやり方を、ある程度長期間続けてきたことによって、
それでは駄目だったということを実感した。

ハートは、下位の第1・2・3チャクラのバランスが取れ、
生き生きとすればするほど、その分だけ大きく覚醒するとされている。
だからもう一回基礎に立ち返って、
下位のチャクラとのつながりを取り戻すところから始めたい、
サトルボディヒーリングに取り組んだのはそんな思いもあった。

ワークを進めていくうちに、
私は自分が特に、第2チャクラを抑圧していたということに気が付いた。
私は、ここ数年感情は、
特にネガティブな感情は要らないと思っていたため、
そういうものは自分にはないものとしてきた。
それが第2チャクラを抑圧することにつながっていたのだった。

しかしサトルボディヒーリングのテキストを読んでいるうちに、
もともと自分は、第2チャクラの感受性がとても豊かなタイプだったのだ
ということに気が付いた。

第2身体は、皮膚の表面2~5センチに広がりながら
肉体を包むように充満するエネルギー層で、
第2チャクラはその第2身体の神経中枢であり、下腹部に位置している。
第2身体の機能はフィーリング、感じることである。

『サトルボディヒーリング』には、
第1チャクラを中枢に持つ第1身体(肉体のことである)と
第2身体との違いがこんなふうに書き記されている。

『車のハンドルを握っているときに両手に感じる、
プラスチックのハンドルの硬さ――これは第1身体の感覚。
そのハンドルを握っていて、良い気分、官能的な感じを持ったとしたら、
――それは第2身体の感覚』。

『椅子に足のつま先をぶつけたとき、そこで感じる痛みは第1身体の感覚。
もしその結果、声を上げて泣いたり、人生の不遇を感じたなら、第2身体の感覚』。

そして、人と共感したり、森の中を歩いたり、
浜辺で夕焼けを楽しんでいるときに、自然と溶け合い融合する、
つまり外の世界と一つになろうとする感覚も、第2身体の感覚である。

私は、第2身体の感受性がとても豊かなタイプである。

実際に、見えない存在たちや、
植物や鉱物などとコミュニケーションを取るときには、
もちろん第4・5・6チャクラといった高位のチャクラを使ってはいるけれども、
第2チャクラもかなり使っているのだ。

相手と同調する能力、相手の中に入っていく能力、
そしてそこで起こるさまざまなことを感じ取る能力、
それらは第2チャクラと大きく関わっていた。

しかしそれは私に豊かさを与えてくれるものであると同時に、
苦しみを与えるものでもあった。

第2身体には、他のフィーリングを察知し、吸収する能力がある。
第2身体は、身の回りで放射されるあらゆるフィーリングを吸い込む
スポンジのような浸透性を持つのである。

自分のではない他人の感情エネルギーを吸い込み、
それによって苦しむことは、考えてみると小さいころから
ずっと味わってきたことだった。
そしてそれはボディーワークやエネルギーワークをするようになって
さらに敏感に、顕著になっていった。

プロとして活動するうちに、グラウンディング力を高め、
自分の姿勢のあり方によって、そういったものに大きく翻弄されることは
少なくなっていったけれども、ここ数年は忍耐の生活が続き、
それに対応するために、自然と感情や感受性を抑え込むようになってしまっていた。
それによって第2身体が麻痺をして、不快さを感じなくもなったけれど、
何をしていても本当には楽しめないようになってしまっていた。

私は、ハート瞑想を進めていくうちに、
どんな感情も突き詰めていけば、美しいもの、
必要な気付きや、叡智へと返っていく、
感情はそれらを指し示す矢印みたいな働きをしているものなのだ
ということに気が付いた。

そして他者を感じ取ったり、コミュニケーションしたりすることに
大きな役割を担っている自分の豊かな感受性を、
とても大事な宝物、大切な資質として感じられるようになった。

この本を読んで初めてはっきりと気が付いたことは、
第2チャクラの一体感は、ハートの一体感とは違うということだった。
本当に目指すのは、きっとハートの一体感なのだと思う。

でも私は、第2チャクラで味わう一体感も好きだということにも、
あらためて気が付いた。
だからこうやって肉体を持っている間は、それを味わうことを、
ただしそれに振り回されずに、うまく、楽しんでいきたいと思っている。

私はより豊かに生き生きと世界を感じ取りたい、
そして第2チャクラで感じる一体感をもっと深めたい、と思った。

これまでなかったくらいに、自分の感受性を大きく開きたいと思った。

それには、自分にとって快くない感覚が湧き上がってきたときに、
それとうまく付き合う方法と、
そして自分の第2身体に入ってくる他者のフィーリングを
うまく扱うやり方をマスターしておくことが必須だった。

この本によると、『他者のフィーリングを吸収する人たちにとっての解決策は、
第2チャクラ身体をスピリチュアルハートセンターと結びつけながら、
抵抗せずに、それらが第2身体に入ってくるのをゆるすことです』とある。

『ハートは受容の空間を作り出します。
それがあらゆるフィーリングを第2身体に「張りつく」ことなく通過させるか、
あるいはそれらに変容をもたらします。
一方、入ってくるバイブに抵抗しようと努力すると、
自分自身の第2身体の反応を抑えようとする努力がそれに加わって、
動揺と軋轢を生み出し、否定的感情を引き起こすことになるのです』。

『否定的なフィーリングに圧倒されずに、
第2身体の感受性を保つための解決策は、ハートセンターを開発することです』。


そして私は、ちょうどいいタイミングで、
その練習をする機会に恵まれた。

ある週末、近所の道の駅でイベントがあった。
ここら辺は彫刻の町なので、道の駅には彫刻の展示館などもある。
そのイベント時期は入館料無料ということなので、
T君と2人、冷やかし気分で見にいってみた。

展示されている作品は、地元でプロとして活動されている方たちの作品である。
作品には値段も付いていて、時にその値段に驚いたりしながら、
面白おかしく作品を見ていた。
でも見ているうちに、私は、少し気分が悪くなってきてしまった。

失礼を承知で言うと、それらはプロの人たちによる作品群ではあったけれど、
つまり木に命が吹き込まれているような作品ではなかった。
そして、何日も何日も、こつこつとそれぞれが思いを込めて作ったのだろう。
その場にいろんな人がその作品に込めた思いが、
集結して充満していたのだった。

第2チャクラの感覚を再び大きく開き始めつつあった私は、
その思いを第2身体に吸い込んでいたようだった。

帰ってハート瞑想をした。
たどっていくと、結局はあるがままを認めていない自分の感情が反応して、
気分の悪さを引き起こしていることに気が付いた。
しかしそれもやがてハートの中で自分を大きく信頼して、
受容するような気持ちへと返っていった。

本にはこうある。
『第2身体のより深い層に浸透していくにつれて、
あなたはどんな外的な刺激にも関係なく、
自分自身の内側で、ある幸福な状態を体験する地点にまでやってきます。
これこそが第2身体の本質をなす特性です。

このようになると、まるで第2身体が満ち足りた猫が喉を鳴らすかのように
音を立てるのが聞こえてくるかのようです。
そのとき第2身体は、自ずと気持ちよく感じられ、生き生きと振動しているのです。』

私もここのところ第2身体とかなり仲が良くなってきているのか、
気が付くと、何がなくとも、なんかいい感じだな~、幸せだな~とか
思っていたりするのがうれしい。

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ハート瞑想

サトルボディヒーリングの中核にあるのはハート瞑想である。

ハートは全てをあるがままに受容するスペースである。

ハート瞑想は、まずハートチャクラのある胸の辺りへの感覚に意識を向けることから
スタートする。リラックスしながら呼吸とともに、
胸郭が広がったり狭まったりすることに気付く。
そしてハートチャクラの周辺や中で起こる感覚にも気付いていく。

始める前は、胸の辺りの感覚なんて、そんな明瞭に感じるものなんだろうか、
なんかぼやっとしたつまらない瞑想になるんじゃないか、すぐに飽きるんじゃないか
と思っていた。ところがそうではなかった。

始めてやってみた時、ハートの辺りの肉体的な感覚に意識を向けているうちに、
やがて何か悲しい感情が浮かび上がってきた。そしてそれを感じているうちに、
それは消えていった。
ただ寝転んで、胸の辺りに意識を向けるだけで、
簡単に明確な浄化が起こったことに驚いた。

そして、私はもうひとりでにその瞑想をやっていたということにも気が付いた。

ハート瞑想の面白さに引きつけられた私は、暇があると瞑想するようになった。

ハート瞑想の中では、湧き上がるどんな感情も認める。
この瞑想は、例えば相手を許すとか、その出来事を許すとかいうことはしない。
ただただ、自分の内側にだけ意識を向けていく。

その根底には、
起こったことや相手は、何かを刺激する役割を果たしたのかもしれないけれども、
それによって自分の中に湧き起こってきたものは、誰かや何かのせいではなく、
元々が自分の中にあったものであるという理解がある。

だから相手のことは一切気にしない。
どちらが正しくてどちらが間違っているとかも関係ない。
起こった出来事に対しても、どうしようともしない。

ただただ、自分の内側にだけ意識を向け、
自分の中に起こっていることに気付いていくのである。

感情が湧き上がったとしても、消そうとか変えようとかはしない。
自分の中に湧き上がるものを、ただのエネルギーとして
(ただのエネルギーにいいも悪いもない)あるがままに認めていくのである。

その感情を判断しないで、しっかりと味わう。
それによってさらに、もっと深い感情が姿を現すこともある。そしたらそれも味わう。

何が出てこようとも、とことん味わっていく。
そうすると結局は根っこにある、ああ、大本はこれだったのかというような
大きな孤独感だったり、愛してほしいという気持ちだったりに
コツンと突き当たったりする。もちろんそれらも味わう。

このように最初の感情はどんどん変容していく。
でもそれは、変えようとして変わるのではない。
ハートの中で認めて味わっていたら、変容がひとりでに起こっていくのである。

そうやって感情がどんどん変容していく、それを味わっていくと、
最後には、その感情は「元々そうだったもの」へと戻っていくということに気が付いた。

愛だとか、喜びだとか、煌めきだとか、
そういったとっても美しいもののところへ帰って、消えていく。
そしてあとには、気付きや叡智が残される。

これがハートの錬金術というものなのだった。

どんなものでも、ハートの中では、元々そうだった美しいものへ戻るのだ。

しかも、他の力ある誰かに頼ったり、すがるのではなく、
共有の宇宙のハートというスペースを使って、
誰もが自由に自分をゆるし、大きく広がっていくことができる。

汚いからマイナスだから、消すとか変化させなければならないのではなく、
ハートにおいては、ただ認めていけばそれは、
元々そうであった美しいありようへと返っていくのだ。

ハート瞑想を何度も何度も繰り返すうちに、私はそう確信するようになった。

そして、それを知ることができたのは、私にとっては本当に祝福だった。

そして感情や感受性というのは、本来、
その美しいものを指し示す道具のようなものなのであるということも知った。

また、それらは、自分にとって必要な気付きまで自分の意識を持っていってくれる
道標のような役割を果たすこともある。

高次の存在は感情体がないという。確かにそうだと思う。
私も以前は、進化していったらそうなるのだから、
もう自分もそんなに感情は要らないんじゃないかと思っていた。

でも高次の存在にはないものが自分たちにあるということは、
これは逆に素晴らしい利点であり、恵まれた財産なのだということを
初めて思うようになった。

感情をうまく乗りこなすことができたら、
まるでサーファーが波をうまく乗りこなすみたいに、
今という瞬間のジューシーさをたっぷり味わいながら、
本当に面白がって存在していくことができるだろう。

だから感情や感受性というものは大事である。
ありのままに感じていればいいと大手を振って思えるようになった。

そして、あるがままを見るということの意味も、少しずつ分かってきた。

本当のあるがままというのは、
抑圧されたり傷ついたりして小さくなった自分のことではない。

本当のあるがままというのは、元々そうだった美しいもののことである。

でもその本当のあるがままを感じ取るためには、
まずは、今の自分のあるがままを、何も判断せずに、
感じ取って認めていく必要があるのだ。

リラックスして、何も変えようともせずに、
ただただ自分の内側をあるがままに感じていく、
そんな単純なことから、こんな美しい変容のマジックが起こるというそのことに、
私は魅了されていた。

ハートの中では、全てが美しいものに戻っていく。
そしてその変容の過程には一つとして同じものはない。

私は、色とりどりのさまざまな宝石が生まれていくその様子を見に行く、
そんなようなわくわくした気持ちで、楽しみながら、面白がりながら、
ハート瞑想を繰り返すようになった。

ハートは、まるで宝石箱のようだと思った。

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サトルボディヒーリング

そして、私はオーラソーマボトルを使い始めたころ、
同時に、『サトルボディヒーリング』という本も取り寄せて読み始めた。

サトルボディヒーリングは、ものすごくざっくり説明すると、
チャクラを通して自己探求するための、
それもハートを通して探求するためのシステムである。

この本には、各チャクラに対する説明と同時に、
知識だけではなく実際に実践しながら理解を深めていけるようなエクササイズも
たくさん盛り込まれている。

それらのエクササイズは、例えば、リラックスして、
まずは呼吸によって胸郭が広がったり狭まったりする感覚を意識するというような、
非常にシンプルなところからスタートする。

ヒプノセラピーとか、ヘミシンクとか、エネルギーワークなど、
今までいろいろなことをやってきた私には、
あまりに素朴で何気なさ過ぎるワークに思われた。

でもいざ始めてみると、ただ座って(あるいは寝て)、
自分の内側に意識を向けることによって起こっていく変容に驚かされた。

そして、私は実際にそれらを使い出すうちに、
自己探求するための教科書と地図としてこの本が、
そしてその旅を支援し、保護するためのものとしてオーラソーマのボトルが、
私の元にやってきてくれたのだということに気が付いた。

そうなのだった。

私は、決められた道を行くのではなく、自分で旅がしたかったのである。

その旅が始まってみて、自分がどれだけそれを欲していたかを知った。

私は、
自分の耳で風の音を聞き、自分の目で潮の流れを見極めながら、
自分の手で帆を張り、地図に点を打って、
自分が心から納得できる、自分なりの真実を見い出す旅がしたかったのである。

そしてその新しい旅はもう始まっていた。

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オーラソーマ

私は去年の12月くらいから、自分が色に引かれていることを感じていた。
そして年末にはオーラソーマのことを思い出し、
その創始者であるヴィッキーさんの本を再読した。
読んでいるうちにオーラソーマのボトルをまた使いたいと思うようになり、
年始に使い始めた。

ご存じの方も多いと思うけど、
オーラソーマは、前出のヴィッキーさんの手から生み出されたもので、
植物と鉱物と、そして光の三つの世界を融合させたものだといわれている。

初期にはバランスとも呼ばれていたイクイリブリアムボトルは、
ボトルをシェイクし、中のオイルを体の対応する部分に塗っていく。
そうすることで、霊的な意味においても、物質的な意味においてもバランスが整い、
癒やされていくとされている。

見ると分かるとおり、これらは非常に美しい色とりどりのボトルで、
(もちろん植物などから得た自然の色である)、
ヴィッキーさんは人生の後半に目が見えなくなってしまったのだが、
これらの美しいボトルは、何と目が見えなくなってから、
啓示に従って生み出されたものだった。

余談になるけれども、オーラソーマ製品には、
オーラ層に塗って使うポマンダーというものもあって、
霊的に敏感になりだした時期にとても助けられたことがあった。
エネルギーに敏感で困っている人には、強力なグラウンディングを促すディープレッドや、
浄化力の強いホワイトのポマンダーがきっと役に立つのではないかと思う。

話はボトルに戻って、100本以上あるボトルから何を使おうか、
と思ったときに選んだのが0番のボトルだった。
オーラソーマのボトルの選び方、使い方には一応決まったやり方があるのだけど、
今回は直観まま、とにかく0番を使おうと思った。

B000

0番ボトル(『AURA-SOMA』ホームページより)

0番は全てのボトルの中で、最も暗い色で構成されているといわれている。
特に、ボトルの下層のディープマゼンダという色は、
光を当てなければほとんど黒にさえ見える。

以前オーラソーマに興味を持っていた時に、
この暗い色合いのボトルに関心を持ったことはなかった。

でも、今の私はディープマゼンダという色の概念にものすごく引かれていた。

『ディープマゼンダは8番目の色とされている。
虹の7色が現れる線形のシステムとは異なるシステムで出現する神秘の色とされている。』


『レッドとヴァイオレットの間に「隠れて」いるゆえに、
光のスペクトルの終わりと始まりの両方を表す、神聖なる愛の完全表現である。
そのようなものとして、マゼンタは白色光を含め、
他のすべての色を包含あるいは保持している』。


『第8チャクラ「魂の星」の色として解釈され、「魂の青写真」、
いわゆる「アカシック レコード」として知られるものを含んでいる』。
(チャクラは頭頂までの7つとされているが、身体を超えて12まであるともされている)

『マゼンタはヴァイオレット(第7チャクラ)とレッド(第1チャクラ)の中間にあると見なされる。
つまり二元性とその二元の状態が創り出す、間違った裁きのかなたにある』。

『マゼンタは神へのありうる最も近い接続であり、あらゆるものの代表であり、
別の言葉で言うなら、全生命の神聖さに対する途方もない尊敬を表している。』

「AURA-SOMA」ホームページより抜粋・要約)


このディープマゼンダという色を取り入れ、交流することで私は、
今一番、自分が求めていること、「ありのままを見る」ということ、
そして「自分を愛する」ということへの理解が深まるのではないかと感じていた。


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優しく、大切に。

1月2日、私たちは富山市にある「皇祖皇太神宮」にお参りしていた。

ここはぱっと見、かなり素朴な感じの神社である。
でも、境内の案内板を見ると、竹内文書と関係があるとか、
マホメットや釈迦、キリストなどそうそうたる人たちがここを訪れたなどと書いてある。

ここの参拝の仕方は「四度拝八平手一度拝」という特殊なお参りの仕方で、
手は剣の形に組む。

これがコールサインみたいになって、違う次元を呼び出す、
それによって自分が必要とする存在とアクセスすることができる、
という場所なのではないかというのが、昨春初めて連れてきてもらった時の感想だった。

この1月2日の時は、新年だったので、
帰り際この場で、お互いに今年1年のメッセージを受け取ろうということになった。

T君は、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)がバシッと降りてくる、
何だかかっこいい感じのメッセージを受け取っていた。

私はといえば、「優しく、大切に」というメッセージを受け取った。


優しく、大切に。

最初は何だかふわふわ~っとしたメッセージだなと思った。
そりゃそうだよねといえばそうだし・・・。

しかしそのうちに私は、はなから自分が、
その優しく大切にするという対象から自分を抜いて考えていたことに気が付いた。

このメッセージは、自分に優しく、自分を大切にということなのだ。

自分に優しく、自分を大切に。

その言葉がまさに、新たなる私の旅のキーワードとなったのだった。

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