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2017年1月

初詣

元旦の日に初詣に行った。

といっても神社へではない。

富山の五箇山というところにある天柱石へ行った。
ここのことは、たまにブログにもコメントをくれる
しんちゃんに教えてもらって知ったのだけど、
何となく、初詣に行くといい気がしたので、そうしてみたのだった。

朝いつもなら食べずに出るところを、何となく腹ごしらえしたくなり、
ちょうど台所にあった、ぜんざいの汁を飲んで出た。
これは、後から考えたら、正解だった。

富山は、この冬はまだ珍しく積雪しておらず、
だからこそ軽い気持ちでのこのこ行った私たちを待ち受けていたのは、
雪山だった。

雪のない時期であれば、この石のごく近くまで車で行くことができたのだけれど、
それができず、かなり手前から歩くこととなった。

車を止めたところから少し歩くと、道が二股に分かれていて、
私は、自然に一方の道を選んで歩いていた。

でも、しばらくしてT君がこっちじゃないかもと言い、
来た道を戻り、もう一方の道を行くことになった。

私たちは地図を持っていなかった。

また運の悪いことに、と言うか、
そこはクロスカントリーの練習コースであるらしく、
普段は道がないだろう所にも、
まるでフェイクのように、たくさんの道がこしらえてあったのだった。
そこをうろうろと1時間以上は歩き回っただろうか。

私も、もともとあまり方向感覚に自信がないながらも、
つので探ってみると、何だかつのが後ろに引かれる気がする。
何度探ってみても、そういう気がする。
後ろというと、来た道を戻ることになる。

と、そこで自分がスマホを持っていることを思い出した。
ちょうどたった二日前に化石化していたPHSから換えたばかりだった。
この機種変更も今思えば、いいタイミングだった。

何とかネットにつながったので、
Google mapを見ながら歩いていくと、
何と、と言うか、やっぱり、と言うか、
最初の道をそのまま進めば良かったということが判明したのだった。

しかしそこからも平たんな道が続くわけではない。

途中までならしてあった道も、除雪されていないゾーンになり、
雪の中を漕ぐようにして歩かなければならなくなった。

先を進むと、実は、途中道に迷ったところからも行けたことが分かった。
でもそのときも私たちは進む道の選択を間違えて違う道に行っていたのだった。

そして、そんなこんなしているうちに、
Google mapで表示は出ているけれども、
本当に実際のところはどうなのか分からないという中、
しばらく先頭に立ってもくもくと歩いてくれていたT君が、
もうこれ以上は行かないと言い出した。

もともとここに来ることを提案したのは、私だし、
きっと、雪の中を先頭に立って歩くのも、大変だっただろうと思う。
そう言うのも、しようがないなと思った。

でも私は、多分これは自分が行きたいから行く、
だけの話ではないのだろうなと感じ出していた。
不安もないわけではなかったけど、
ここまで来たら、と一人で行くことにした。

よく分からないけど、何か大事なことが待っている気がしたのだ。

雪の中をザクザクと歩いているとき、
なぜか頭の中をずっと第九が流れていた。

最初は、そのメロディーを年末どこかで聞いたのかなと思ってた。
でも、第九と言えば、つまりは、歓喜の歌であるということを思い出した。
そこから、マイトレーヤのことが頭に思い浮かんだ。

T君を後にして、しばらく一人歩き続けた。

そのうち、もうそろそろで到着という頃、
後ろを振り返ると、T君もちゃんと後ろを歩いてきていた。
良かった、と思った。

ネットなどで見てはいたけど、やはり天柱石は大きかった。
小山と言ってもいいくらいだった。
エネルギーも素晴らしかった。苦労して来てよかったなと思った。


その帰り道のこと。

どうも足取りが重い。
具体的に言うと、右股関節が異常に痛かった。

雪の中を延々、歩いたからかもしれない、とか、
日ごろの運動不足がたたったからかもと最初思ったが、
どうもそれだけではないなと気付いた。
多分、石の所で受け取った情報が、体のエネルギー体に入って
痛みが出ているような気がした。

一歩一歩、牛歩のような足取りで進む。

車まで戻ったときは、さすがにほっとした。

私たちは結局、迷いながら4時間ほども雪の中を歩き回ったのだった。


不思議なことに、行きも帰りも、車中から虹を見た。

天柱石で受け取った情報を開いてみた。
どんなワークが起こるのかが、何となく分かった。
帰ってしばらくしてワークが起こった。

高い波動の次元から3次元へ、
例えて言うならば、ドラゴンボールみたいな意味合いの玉が、
じゃらじゃらと、大量に転送されてきた。

ドラゴンボールは7つしかないらしいが
私を通って出ていった玉は、大量だった。

脱穀された豆なんかがザーッと次から次へと出ていくようなイメージ。


みんな、それぞれの幸せを手にしながら生きていく。

人によって幸せは違って、いろいろたくさんある。


この玉は、これからみんなが手にして現実化していく、
それぞれに現実化される前の「幸せの素」みたいな感じらしかった。


このワークは、どっかの次元から
産婆さん的な役割の存在がきて、やってくれた。

私にしては規模のでかいワークだった気がする。

このワークを請け負うことによって、
何かそういう選択権があったみたいだったので、
今回さらに、そういう通り道としての幅を広げてもらった。


T君とは、今回はお互いにいろいろ試されたねという話になった。

私は、もっと感覚を磨かないといけないし、
自分の感覚を信じないとなぁと思った。

でも今回のことでよく分かったことがある。

多少回り道をしても、明確な意図さえあれば、
必ず何とかなるんだなということと、
私はやっぱり、こういうワークに使ってもらうのが、
好きなんだろうなということである。

スピリチュアルなことを学びだして、
どこかパワースポットみたいなところに行ったり、
エネルギーを受けたりすると、
より高い波動のどこかの次元から、エネルギーを受け、
そのエネルギーを地球の次元に合うように変換して降ろす、
みたいなことが、たびたび、ごく自然と起こるようになった。

もともと肉体が、そういう通路になっているみたいだ。

そういうことをすることについては、
いろいろ考えてきた。

別に私がそんなことをする必要なんてないんじゃないかと
思ったこともあった。

それに人には、分かってもらえないことでもある。

こういう個人的な感覚を、たくさん持てば持つほど、
みんなと分かり合うことから離れていく気がする。

今回のことも、
今の地球に普通に生きている人の感覚だったら、
この人頭おかしい、となるだろうと思う。

地球に生きることは、
みんなの感覚に合わせるというか、常に背を屈めるみたいにして、
小さくなって生きることだなと、どこか思いながら生きてきたけれど、

でも今回、ニュートラルに、
これは私にとってごく自然な能力であり、自然な行為なんだから、
それでいいんじゃないかと思うようになった。

だから否定する必要も、拒絶する必要もない。

また妙に気負ってする必要もない。

もしまた機会がやってきたら、
ただナチュラルに、
私にとって大事な仕事の一つとして、
受け取ればいいんだなと思えるようになった。

ちょっと大変だったけど、いい初詣になった。

※天柱石の写真も、虹の写真もありませんが、
道中に撮った写真がありますので、
良かったら→ https://mojud8008.tumblr.com/

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ナジャの正体

二人ともつの持ちになってから、
たまになんかしらテーマを決めて、
一緒にワークすることがある。

ある夜、T君がシリウスに行きたいと言ったので、そうすることにした。

私は、シリウスの人たちとは、以前深く関わっていたけれど、
エネルギーワークをやめてからは、ぷっつり関係が切れていた。

だから、多分私はシリウスには、自分では行かなかっただろうなと思う。

今回もそうだけど、T君と暮らすようになってから、
自分では選ばない本を読むとか(アジャーニの本もそうだった)、
自分のチョイスにはないことをする機会が増えている。

振り返ってみると、結構そのチョイスに
アシストされていることも多かったりする。

それが一人で生きることと、
誰かと生きることの違いかなと思う。

二人というのがまた今はちょうどいいのかもしれない。
振り回され過ぎずに、丁寧にじっくり味わって変化してゆくことができる。


話は元に戻る。

シリウスへと意図した途端、眩しいくらいの光に包まれた。

そして次々に声が掛かった。

「どうしてた?」「気に掛けてたよ」「よく戻ってきたね」
みたいな懐かし気な、気遣ってくれるような感じだった。
ああ、仲間だったと思った。

でも私は、この数年、
そのヒトたちのことをほとんど忘れていたのだった。

思い掛けず掛けられた数々の声に、自分が忘れていた間にも、
いつも、温かい思いやりが降り注いでいたことに気が付いた。


ふと、ナジャのことを思い出した。

あれ?ナジャって、シリウスのヒトなの?と聞いてみたら、
やはりそうだった。

思い出してみれば、
ナジャとは、シリウスにいた頃は、
親友といってもいいくらいの間柄だったみたいだった。
だから、このところ私の呼び掛けに答えて来てくれていたのだった。

シリウスのみんなから私に向かって、温かな愛情が降り注いでいた。

でも、私はうまく受け取ることができなかった。

受け取るには、自分も丸裸になっている必要がある。

私にはそのときシリウスの人たちとそういう深い交流をする
心づもりがなかったので、戸惑っていた。

そのうち、心の扉がちょっとだけ開きかけて、
涙が出るくらいの愛を感じたのだけど、
でも、受け取りきれなかった。


うれしい、でも受け取れない、何か受け取りたくない、みたいな気持ちが
私の中で渦巻いていた。

こんなにも、温かい気持ちを送ってくれている、それなのに。

そんな自分のありようをそのまま感じ取りながら、
私は結構、こうやって、受け取り損ねているんだろうな~と思った。

シリウスのヒトたちだけでなく、いろいろな人の顔も浮かんだ。


私には受け取り下手なところがある。
ついつい、自分はいいんでと、脇に逃げたくなってしまう。


愛は、与えられていないわけではない。

いつも降り注いでいるのだ。

分かってはいたことだけれど、

ただ、それを自分が受けとるかどうか、それだけなのだ。



そう思ったとき、ナジャの声が鳴り響いた。

「魔法とは、まず受け取ること。」

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